第5回もう一度まなぶ日本近代史特別編~「新撰組」拝命、新体制へ~
壬生浪士組は、芹沢鴨の狼藉に悩まされながらも任務を遂行していましたが、これといった大きな活躍もなく、くすぶったままでした。しかし、文久3年(1863年)8月18日、大きな仕事が舞い込んでくることになるのです。
「新撰組」拝命
文久3年8月18日といえば、教科書にも載っている大きな事件が起こっています。八月十八日の政変です。当時、朝廷を牛耳っていたのは、長州系の尊攘派たちでした。しかし、孝明天皇は、長州系尊攘派の行きすぎた行動に不快感を示しており、長州の政敵であった薩摩と会津が手を組み、クーデターを起こしたのです。
その内容を簡単に説明すると、長州や長州に近しい公卿を御所から追い出すことを朝議で勝手に決めてしまい、長州が抗議できないように御所の門を薩摩や会津などの藩兵で固めて、締め出したのです。ここら辺は、本編の第13回に詳しく書きましたので、そちらを参照してください。
この時、会津預かりだった壬生浪士組にも出動するように要請がありました。近藤勇たちは、52名の隊士を率いて、御所に向かうのです。しかし、蛤御門から御所へ入ろうとしたとき、事情を知らない会津藩兵が壬生浪士組の通行を認めませんでした。近藤は、事情を説明しますが、聞き入れられません。仕舞いには、会津藩兵から槍を突きつけられる始末です。近藤たちはビビってしまうのですが、会津藩兵に臆することなく、一喝を入れたのが芹沢鴨です。普段はその粗暴さに迷惑していましたが、こういう時にはなんだか頼りがいのある、カッコイイ感じになってしまう「ジャイアン効果」というものでしょうか。
その後、事情を知る会津の者がやってきたため、通行を許され、壬生浪士組は御所の警護に就くことになります。長州も藩兵を連れて、抗議に来ますが、さすがに御所に向けて攻撃をするわけにもいかず、引き上げていったため、事なきを得ます。
壬生浪士組は、この時の活躍が評価される形で、「新撰組」を拝命し、京都市中見回りを命ぜられています。その名は、朝廷から賜ったという説と会津藩主松平容保から賜ったという二つの説があります。新撰組という名前は、かつて会津藩兵の精鋭部隊に付けられてもので、そこから名前を頂いたそうです。また、漢字については、「新選組」と記されることがありますが、近藤自身が公式な文書において、どちらの漢字も使用していることから、どちらでも正解という風潮のようです。私は、変換で一発で出てくる「新撰組」の方を使用しています。
粛清の歴史が始まる
ついに新撰組となった壬生浪士組ですが、同時にお家芸とも言える粛清の歴史も始まっていくのです。まず、その標的となったのが新見錦です。新見は、壬生浪士組結成当初、近藤や芹沢と並んで局長という地位にありましたが、何らかの理由でこの頃には、副長に降格させられていました。局長になったぐらいですから、当時はそれなりに名の知れた人物だったのでしょうが、謎が多く、はっきりとしたことがわかりません。水戸出身ということもあり、創作では芹沢鴨の腹心のように描かれることが多いのですが、芹沢が起こした事件に関与した記録もなく、どれほどの関係だったのか不明です。
文久3年9月13日、その新見錦が突如、切腹させられています。なぜ切腹することになったのかという具体的な理由は不明ですが、永倉曰く、「なかなかの乱暴者で、近藤や芹沢の言うこともまったく聞かなかった」らしいので、何らかの問題を起こし、規律を守るために切腹になったのは間違いなさそうです。
また、謎といえば、斎藤一と共に壬生浪士組に参加した副長助勤佐伯又三郎の死です。前回やった壬生での相撲興行の前に、殺害されているのですが、なぜ殺害されたのかも、誰に殺害されたのかも不明です。長州藩士に殺されただの、長州のスパイだっただの、いろいろな説があるのですが、この時代なんて事件をでっち上げることがざらにあるので、真実かどうかを判断するのは難しいものです。
近藤・土方体制へ
新見が切腹した3日後、ついに粛清の刃が芹沢に向けられることになります。島原で会合が行われた後、酒宴が行われました。芹沢はべろべろに酔っ払い、平山五郎や平間重助と共にそれぞれ妾を連れて壬生の屯所に戻ります。芹沢らが寝静まった後、刺客が襲撃するのです。泥酔して眠っている芹沢、平山、さらに芹沢の妾であったお梅が刺客によって殺害されました。別室にいた平間は助かり、その後、脱走しています。刺客は、土方歳三、山南敬助、沖田総司、原田左之助と言われていますが、諸説あるようです。12月には、野口健司も突如切腹させられており、これで水戸派は完全に消滅したことになります。ちなみに芹沢や平山は、長州の間者によって暗殺されたことにされ、近藤たちによって葬儀が行われています。
芹沢が暗殺された理由なのですが、これにも諸説あります。通説では、これ以上、芹沢が狼藉を続けると新撰組を預かる会津にも監督責任が問われるので、近藤らに芹沢の処分を命令したというものでした。しかし、最近発見された文書によると、どうやら尊攘思想の強い水戸出身の芹沢が朝廷の尊攘派と内通しており、会津から裏切り者を始末するように言われたか、幕府と揉め事を起こしたくない朝廷の守旧派から始末するように言われたのではないかという説が出てきているようです。
一般的に芹沢ら水戸派と近藤ら試衛館派は、予てから確執があったと思われがちですが、近藤らは天狗党にも参加した武士である芹沢を非常に尊敬しており、それほど関係が悪かったというわけではありません。近藤も尊攘思想を持っており、幕府主導による攘夷実行を望んでいたり、将軍が攘夷実行を行う前に江戸に帰ることに反対したりしています。
文久3年末頃に入隊したとされ、後に五番組組長、文学師範、軍事方として活躍する武田観柳斎。
本名は福田廣ですが、甲州流軍学を学んだことから、武田信玄で有名な甲斐武田氏に因んで、このように名乗ったそうです。
近藤に媚びへつらう、「おべっか使い」の文官で、剣術はからっきしと思われがちですが、前線での活躍も多い、文武両道の隊士だったようです。
また、美少年隊士に関係を迫るホモというイメージをつけられるなど、創作で散々な目に遭い、新撰組きっての不人気者となったかわいそうな人です。
組頭の中でも、存在自体なかったことにされることも少なくない松原忠司、谷三十郎、鈴木三樹三郎に比べたらまだマシ・・・なのでしょうか?
次回は、近藤・土方体制となった新撰組が不逞浪士相手に戦います。その名を天下に轟かせるまで、あともう少しです。