第6回もう一度まなぶ日本近代史特別編~そして、池田屋へ~

文:なかむら ひろし

 芹沢鴨ら水戸派を粛清した近藤勇たちは、壬生浪士組から新撰組へと名を改め、新体制で再出発することになりました。

スパイ潜入?!

 文久3年(1863年)9月、芹沢らを粛清した直後にある事件が起こっています。隊士の御倉伊勢武、荒木田左馬之介、楠小十郎らが長州のスパイとして、殺害されてしまったのです。永倉新八や中村金吾が襲撃されたなどという話がありますが、実際のところ、長州のスパイだったのかどうかは不明です。芹沢を粛清した直後であったことから、仮に別の理由で粛清されていたとしても、長州のスパイであった方が罪をなすり付けるのにちょうど良かったのでしょう。
 「死人に口なし」という言葉があるように、歴史の中でも自分に都合の良いように事実を捻じ曲げて伝えることは結構あります。芹沢も死亡したことで、他の隊士の不祥事をなすり付けられ、必要以上に悪役とされてしまっている節があると言います。創作では面白くするため、さらに脚色されてしまい、芹沢=極悪人というようなイメージを刷り込まれている方も多いのではないでしょうか。恐ろしい話です。

逆になすり付けられることも多い新撰組

 言われなき罪をなすり付けているのは、何も新撰組だけではありません。新撰組自身も同じように、言われなき罪をなすり付けられていることも多いのです。元治元年(1864年)5月に起こった大坂西町奉行所与力であった内山彦次郎暗殺事件の犯人とされたことがありました。内山といえば、教科書でも有名な「大塩平八郎の乱」を鎮めた人物です。どうでもいい話ですが、この人のお墓が私の自宅のめちゃくちゃ近所にあったりします。
 暗殺の動機としては、前々回やった力士との乱闘事件の際、内山が力士側に加担したことや取り調べで近藤に大変失礼なことをしたなどと言われていますが、近藤が無礼内討ちとして届けたのは、大坂東奉行所だったことから否定されています。また、内山は地元の豪商と組んで米や油の値段を吊り上げたとも言われますが、そういう人物は、尊皇の志士によって討たれるケースが多く、志士たちによって、なすり付けられた可能性も低くはありません。
 また、暗殺の根拠となっているのが、後年の永倉新八の口述なのですが、年代に食い違いがあり、別の人物と勘違いしている可能性が指摘されています。まあ、おじいちゃんのお話なので、記憶違いがあってもなんら不思議なことはありません。
 これ以外にも新撰組に罪がなすり付けられた事件はたくさんあります。特に有名なのは、坂本龍馬暗殺ですが、このことについては、後に改めて書くことにしましょう。

新体制での編成

 芹沢亡き後の新撰組は、新隊士を加え、再編成を行っています。局長を1名にして、新たに「総長」という役職を置いています。総長は、局長と副長の間に入る補佐的な役割で、実質的には副長の権限が強く、名ばかりの役職ではなかったのではないかと言われています。

元治元年6月の編成

局長 近藤勇
総長 山南敬助
副長 土方歳三
副長助勤 沖田総司、永倉新八、原田左之助、斎藤一、藤堂平助、井上源三郎、尾形俊太郎、松原忠司、安藤早太郎、武田観柳斎、谷三十郎、浅野薫
監察方 山崎烝、島田魁、川島勝司、林信太郎
勘定方 河合耆三郎、尾関弥四郎、酒井兵庫

 段々と全盛期のメンバーに近づいています。このメンバーで池田屋事件に当たることになるわけですが、この頃、病気や負傷、脱走者が相次ぎ、人手が足りていない状態でした。

本当に強い?新撰組

 新撰組といえば、凄腕剣客集団というイメージが強いのではないでしょうか。しかし、本当に新撰組は強かったのでしょうか。結論から言うと強かったわけですが、それにはこんな理由があります。
 新撰組は、集団戦法を取ります。つまりタイマンでは戦わないのです。1人の敵に対して、必ず4,5人以上で戦います。「そんなの卑怯じゃないか!」とお怒りになる方もいらっしゃると思いますが、新撰組は今で言う警察や機動隊のようなものです。治安維持が目的ですから、絶対に負けられないのです。テロリスト相手に卑怯なんてないのです。戦隊ヒーローは、1人の怪人を5人で袋叩きにしても良いのです。ちなみに新撰組といえば、志士たちをたくさん斬殺しているイメージが強いかもしれませんが、実はそうでもありません。あくまで捕縛が第一だからです。斬殺するのは、やむを得ない場合なのです。
 また、真剣での戦いに慣れているという点もあります。ベテランの隊士になると、いくつもの修羅場を潜り抜けています。竹刀同士では強くても、いざ真剣での戦いになると恐怖が生まれるものです。そういう意味では、所謂「局中法度」の存在も大きいかもしれません。負けるだけでなく、逃走も許されませんし、背中に傷を負ってもいけません。相当な精神力がないと続けられませんから、精神力を必要とする真剣勝負は強かったのかもしれません。他にも新撰組には、「死番」というものがあり、先陣を切って突入する人がローテーションで決まっています。死番の人は、いきなり事件が起こっても、すでに覚悟が決まっているため、臆することなく突撃することができるわけです。

近藤、養子を迎える

 元治元年6月頃、近藤勇は養子を迎えています。近藤は、兼ねてより弟弟子の沖田総司を養子に迎えて、天然理心流宗家を継がせたいと考えていたのですが、実際に養子として迎えられたのは、谷昌武でした。
 谷家は、かつて備中松山藩の藩主板倉勝静に仕えていました。しかも、板倉勝静は、老中になっており、家柄は充分です。家柄コンプレックスの強い近藤とって、かなり魅力的だったのでしょう。谷昌武は、近藤勇の養子となり、近藤周平と名を改めます。池田屋事件で勇と行動を共にしますが・・・

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揃って新撰組に加入した谷三兄弟。
長男の三十郎は、後に七番組組長となりますが、隊内で嫌われていたそうです。
弟の昌武が近藤の養子になったことで、大きな顔をするようになったのが原因とか。
創作では、ある隊士の切腹の際、介錯に失敗して信用を失うなど、悪役にされがちな不人気者です。
幹部の中で、一番よくわからない死に方をしています。
次男の万太郎は、種田流槍術の達人で原田左之助に槍術を教えました。
しかし、なぜかその役割が三十郎にすり替えられてしまうなど、結構活躍している割にいなかったことにされがちな地味キャラ。
三男の谷昌武は、近藤勇の養子に迎えられるという大金星で、三兄弟の中では一番の有名人。
しかし、創作では所詮は谷三兄弟という扱われ方をします・・・

 次回は、いよいよ池田屋事件です。ここを登り切ると、あとは下り坂でございます。

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