正直、完全に客観的な批評って無理じゃね?
雪山の選択
例えばあなたが雪山の頂上を目指しているとする。
「俺、山登りに命かけられねぇよ」なんて野暮なツッコミはするでない。そんな「怪談話は所詮、作り話だろ」っていうしょうもない人間のイマジネーションを否定するようなことはナシだ。とりあえず想像してみてくれ。
するとその雪山の頂上目前で断崖絶壁の崖に知っいる人が崖につかまっていて落ちそうになって助けを求めている。想像してほしいのは『ヴァーティカルリミット』みたいな極限の状態だ。超寒い。そしてそのすぐそばに全く知らない違う人が崖につかまって助けを乞いたとしよう。
どっちも「助けてくれー」と叫んでいる。
知っている人はツイッターのフォロワーレベル。知らない人は今ここで初めて見た人だ。
そしてあなたはクリフハンガーのシルベスタースタローンじゃない。あんなタンクトップで雪山なんて普通に死んじゃうぐらいの普通の人。そしてこの二人のうちたった一人しか助けられない。この状況はファイナルファンタジー6のモーグリのシーンを思い浮かべてもらえればわかりやすいかと思う。
回答にどっちも嫌いなやつだから指先一本一本金槌でゆっくり打ち込んで二人とも崖から突き落とすなんて答えはナシだ。そんな自称サイコ発言は本当にサムい。救助隊を求めるとか見捨てるなんてクソ正論もナシだ。こういうクソ正論を投げかけてくるやつって決まってつまらないやつだからな。
とりあえずウーロンハイでも飲んで力抜け。とにかくどちらかを助けることが前提の話だ。
これらの話を前提にした上でどちらを助けるかと問われたら容姿や性別で大きく差は出るだろうけど、どちらも同じ性別で顔のレベルも同じならよっぽど逆張りじゃない限り知っている人を助けると思う。
当たり前だ。全く知らない人なんて助ける義理なんてないし、なんだったら数ミリでも知っている人を見捨てるなんてこちらの精神状態がどうにかなりそうだ。知らない人ならまだ見捨てても言い訳はできる。
だからここで言いたいことはほんの数ミリの忖度でも人の命を左右するレベルのことがざらに起きるということだ。たとえツイッターのフォロワーレベルでも。だから客観的な価値観の判断ってまず無理なんだよねっていうのが今回の話
批評メディアと忖度
巷に溢れている批評メディアをどれでもいいから手にとってほしい。
音楽雑誌ならロッキングオンやBurrn!!。あるいは映画ならキネマ旬報、ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフルなどなんでもいい。どうですか?正直、面白いですか?僕にはどうしても内容がないようで全く面白くない。
だってみんなもう知っている情報だし。例えばどの音楽批評雑誌もビリー・アイリッシュを「暗黒の歌姫」っていうことを長々と講釈垂れて大量の文字で書いてあるだけ。そんなことPVみりゃわかるよって話。Burrn!!も同じだ。イングベイとかRainbow何回出てくるんだよ。
それにウィークエンドシャッフルもすすめられる映画はいつも辛気臭いクライム系邦画だ。本音の映画批評トークらいしいけど絶対に出演者の事務所には忖度している。いつもリリーフランキーが出てくる映画すすめられるし。
いくつか批評をめくってみれば批評の世界においてやっぱり”褒める”ものってみんな自分が知っているものしか褒めない。
ロッキングオンだったら贔屓にしているBump of chickenや今だったら[ALEXANDROS]を全力で褒めちぎるし、Burrn!!はとりあえずクサメタ、メロディックメタルなバンドは手放しで大喜びだ。こんなものCMを金出して買っているものと同じだ。だから批評を読んでも面白くない。
っていうか今時、批評って読んでいる人いますか?ネットを開けば死ぬほどレビューが流れる時代ですよ。
多分、映画の批評はある程度参考にする人はいると思うけど音楽の批評を読んで「よし、買お!!」ってなる人は僕の周りを見回しても『アッコにおまかせ!』を見ている人ぐらい人っ子一人いない。
批評というものを改めて考えてみるとその時代の社会と創作者の視点そして批評者の客観的な視点の三つの視点で批評対象を見ることが批評する上で重要だと思う。
人が見る世界って千差万別だ。作品ひとつとてうさぎとがちょうのジャストロー図形のように見えてくる世界が違う。例えば、初代ゴジラだって怪獣映画としてみたらそれまでだけど、戦争という社会性に視点を変えると全く違う映画に見えてくる。
だから視点を変えてみることで創作物がこの世界においてどういう姿をしているのかかがよりクリアにしていくことでやっと読む価値のある批評になるはずだ。だから今の批評界の現状である宮川大輔みたいに口になんでも放り込んで「上手い」しか言わない視点が一つしかない状態。これって詐欺とフェイクニュース同じですからね。
ヤバイTシャツ屋さんを「あらゆるものをパンクロックにする3人。」って見出しをつける音楽雑誌があったけど、こんな寒いギャグを見ると、本当にこのライターはそんなこと書きたくて書いているのかが心底心配になる。パンクロックとして見たヤバイTシャツ屋さんってどうなのよ。まぁ、僕がこのバンドの見出しを考えるなら「語彙力無くした大二病三人組」ってつけるけど、もしこの見出し使いたかったら自由に使ってもいいですよ。
やっぱり客観視って無理だよ
なんだか批評メディアに対して否定的な話が多くになったけどやっぱり批評をするということは難しい。だって客観視って無理じゃないですか?
付き合いのある人をディスれますか?例えば友人のクソバンドをどう説明しようかと考えたら「とにかくめっちゃ頑張ってるバンドだよ」とか「うん、関西でライブしてるバンド」とディスらずになんとかお茶を濁しながら伝えると思う。それこそ「あらゆるものをパンクロックにするバンド」ぐらいを言うかもしれない。
いくら下手なバンドでも友人が頑張ってる姿を少しでも見てしまうと情が入ってしまう。僕も性根腐ったサイコ野郎じゃないのでそのぐらいはお茶を濁す。ただ、ライブへ行くことはオススメしない。だけど「行くな」とは言わない。というか言えない。気を使ってしまうから。
だから批評って情が一ミリでも入ると客観的な視点で判断することは無理なんだよね。
もうその時点で忖度が行われてしまっているから。政治家とか経営者がよく昼食会とかやってるじゃないですか。あれってこういうことなんですよ。一ミリでも情を与え合っていたらゼロの情よりマシっていうことなんですよ。
最初の雪山の例と同じでたった一ミリの情の差で生きるか死ぬかが決まってしまう。
批評にしても同じことだ。少しでも「好き」が入るとその時点で客観視できない。「あれも好き」「これもかっこいい」という好きな面でしか話せないのはファンレビューだ。批評ではない。だから僕にとってはマイナーリーグもヌンチャクも客観的に批評はできない。
今の批評系の雑誌ってこのパターンが多いんじゃないかな?音楽雑誌のインタビューなんかは「新しいアルバムのここがかっこいい」だのPV撮影秘話ばかり。もしくはポエム付き写真集みたいな変なコーナー。そんなものに金を出して読もうとは思わない。
多分、僕らが批評メディアに求めてるのはライクよりもディスの方なんじゃないかと思うんですよ。Kana-boon飯田単独インタビューとか虜代表対ラー代表ガチンコトーク対談なら金を出して読みますよ。っていうか超読みたい。
だけど取り上げる人たちが常連となると突っ込んだ企画ができなくる。情があるから数ミリの忖度が生まれる。だから本当にマジの批評やインタビューをしようとしたら全く知らないバンドやアーティストじゃないと客観的視点って基本絶対無理。全く知らない関係のない人たちならなんなりと言える。ヤフーコメントなんかもそうじゃないですか?みんな好き勝手言ってる。
なんだか何が言いたいのかまとまらなくなってきたけど、とにかく僕らの日常においてほんの些細な繋がりが忖度につながるっていう話。そんな話だっけ?まぁいいや。
それではまた次回。