第7回もう一度まなぶ日本近代史特別編~京を守れ!池田屋事件~

文:なかむら ひろし

 近藤・土方体制となった新撰組は、京都の治安維持組織として、不逞浪士の取り締まりを行っていました。市中警備を行うには人手不足であったことから、新隊士の募集を行い、組織を拡張していくつもりでした。しかし、この頃は病気や脱走が相次ぎ、人手不足は解決されないままでした。そんな中、京都に長州藩士が潜伏しているという情報を手に入れるのでした。

薪炭商枡屋の正体は?

 元治元年(1864年)6月、新撰組は、監察方に予てから怪しいと睨んでいた京都の薪炭商枡屋を監視させていました。すると、監察方から「枡屋に不穏な動きあり」との報告を受けます。新撰組は、武田観柳斎らを枡屋に送り込み、主人の枡屋喜右衛門を捕縛し、屯所に連行したのです。
 屯所では早速、取り調べが行われました。その結果、枡屋喜右衛門の正体が大津の尊攘派志士古高俊太郎であることが判明します。古高は、尊攘派の連絡役や武器調達役として暗躍する、尊攘派の中では名の知れた人物だったのです。古高の屋敷を調べると、大量の武器弾薬や長州との書簡が発見され、何か企んでいることは明白です。しかし、古高は口を割りません。
 業を煮やした土方は、古高を恐ろしい拷問にかけます。逆さ吊りにし、足の甲から裏に五寸釘を通して、釘の上に火の着いた蝋燭を立てるというものです。さすがの古高もこれには耐え切れず、計画を自白するのです。

尊攘派の恐るべき計画

 古高の自白によると、「風の強い日に京都の街に火を放ち、その混乱の乗じて、京都守護職松平容保を殺害し、孝明天皇を拉致する」という内容でした。その恐ろしい陰謀を知った近藤は、直ちに京都守護職、京都所司代に報告します。
 この尊攘派の陰謀ですが、記録として残っているのが古高の自白だけで、その信憑性は疑問視されています。実は、新撰組が尊攘派を貶めるためにでっち上げたのではないかとも言われたりしています。せっかく大物を釣ったので、名声を得るチャンスとばかりに話を大きくしたのかもしれません。

新撰組出動

 新撰組がさらに捜査を進めると、「古高捕縛を知った潜伏中の尊攘派が会合を行う」ことが発覚します。尊攘派が捕縛された古高や押収された武器弾薬を奪い返しに、屯所を襲撃してくることを恐れた新撰組は、会津や桑名らと協力して、会合中の尊攘派を一掃すべく、出動することが決定されました。
 しかし、約束の時間になっても、待てども待てども援軍はやってきません。会津や桑名の中には、ここで長州とやり合うことは得策ではないとして、藩兵の出動に手間取っていたのです。近藤は、新撰組単独での出動を決めます。総勢34名を近藤隊、土方隊の二手に分けて、屯所から出動しました。
 鴨川を挟んで西側を近藤隊が、東側を土方隊が担当し、尊攘派が潜んでいそうな宿や茶屋をしらみつぶしに御用改めして回ります。そして、22時を過ぎたあたりで、近藤隊が池田屋の敷居をまたぐことになるのです。
 創作では、監察方の山崎烝が事前の調査で尊攘派の居場所を突き止めていたなどとされることがあるのですが、この件で山崎は報奨金を受けていないことや永倉が「ローラー作戦で会合場所を探した」という証言が残っていることから、事実ではないと思われます。

池田屋の激闘

 池田屋に入った近藤が主人惣兵衛に御用改めを行うことを告げると、惣兵衛は客に新撰組が現れたことを大声で知らせます。近藤隊が当たりくじを引いたのです。近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名が池田屋に突入します。武田観柳斎、谷万太郎、浅野薫は表玄関、安藤早太郎、奥沢栄助、新田革左衛門は裏口を固めました。こうして、池田屋で新撰組近藤隊10名と尊攘派志士20数名による戦闘が開始されました。
 近藤と共に二階へ踏み込んだ沖田総司は病により戦線離脱、階下で奮戦していた藤堂平助は暑さから油断して鉢金(漫画『NARUTO』の主人公が頭に着けている防具)を外したところで額を斬り付けられ、流血によって視界が奪われたことで戦線離脱してしまいます。また、裏口を固めていた安藤、新田は重症を負い、奥沢に至っては討ち死にしてしまうなど、新撰組にとって戦況は不利な方向へ進みます。
 しかし、そこへ現れたのが騒ぎを聞きつけた土方隊でした。土方隊の到着によって一気に形勢逆転します。新撰組は、「斬り捨て」から「捕縛」へ切り替え、尊攘派と戦いました。事件が始まってからも静観していた会津や桑名の藩兵は、大勢が決したところでやっと到着します。土方は「一番苦しいところで手を貸さず、戦いが終わった途端にやってきて手柄を奪おうなんて虫が良すぎる」と、藩兵を池田屋に近づけさせなかったそうですが、翌日の市中掃討では会津ら藩兵とも協力しています。

激戦の結果

 池田屋事件では、「12名討ち取り24名捕縛」という戦果を上げ、新撰組はその名を全国に轟かせることになりました。尊攘派は、熊本の宮部鼎蔵、長州の吉田稔麿、広岡浪秀、杉山松介、土佐の北添佶麿、望月亀弥太など優秀な人材を失い、新撰組は大きな怨みを買うことになります。また、土佐の石川潤次郎、野老山吾吉郎、藤崎八郎など誤殺されてしまった人も多かったようです。新撰組も奥沢栄助が討ち死にした他、重症を負った安藤早太郎、新田革左衛門が1ヵ月後に死亡しています。掃討戦では、会津や桑名の藩兵も10数名死者を出しています。
 この事件で、尊攘派の中でも強硬派とされる人たちを激昂させ、彼らに引きずられる形で、長州は佐幕派との正面戦争へ突き進んでいくことになります。京の街を救ったはずの新撰組でしたが、皮肉なことに結果として京の街を火の海と化すことになってしまいます。

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近藤勇の弟弟子で、新撰組最強と名高い沖田総司。
後に一番組組長、撃剣師範を務める、斎藤・藤堂と並ぶ最年少幹部。
明るい性格で近所の子供たちとよく遊んでいたそうです。
イケメンのイメージが強いのですが、容姿に関する記録はほぼ無く、真偽は不明です。
創作などで、愛刀は「菊一文字則宗」とされますが、国宝級の刀を持てるはずもなく、これは否定されています。
また、池田屋事件では、肺結核の発作を起こし、吐血して離脱するというドラマチックな演出がなされますが、事件後も普通に活動していることから、実は熱中症で倒れたのではないかという説があったりします。
夏の暑い京都の街を何10キロもする装備で走り回っていたら、そうなりますわっていう話です。

 次回、尊攘派の復讐戦が始まります。もちろん新撰組も出動します。

なかむら ひろしのTwitter

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