前近代的な統治方法を濫用

文:なかむら ひろし

 前回は「班分け」について書きましたが、今回は「班分け」によって起こった悲劇をお送りしたいと思います。
 班行動を行っていくには、各班のメンバーがきちんとまとまらなければなりません。しかし、各班に極端な能力差が出ないように、様々な生徒が混在した班というのは、ある種の強制力が働かないと、まとまらないことがほとんどです。その強制力となるのが教師です。きちんと班行動ができていないと教師に叱られます。問題を起こした本人だけでなく、班のメンバー全員が叱られます。生徒たちは、先生に叱られたくないので、まとまろうとするわけです。班内に和を乱すような者が現れたら、同じ班内のメンバーが正そうとするようになるわけです。
 このような統治方法は、古くは律令時代から存在し、江戸時代には「五人組」、昭和では「隣組」という形で運用されてきました。これは、言わば人民に自由がない時代において用いられるもので、現在の日本のように人民に自由が認められている近代自治では存在しないものです。学校でこのような前近代的な統治方法が用いられるというのは、学校という共同体において、生徒たちが自由を制限されていることにほかならないのです。
 このシステムには、三つの要素があります。「連帯責任」「相互監視」「相互扶助」です。「連帯責任」は、前述したように問題を起こした本人だけでなく、所属する集団全員が責任を負うことになるということです。次に「相互監視」は、誰か一人でも問題を起こすと連帯責任を負わされるわけですから、誰かが問題を起こさないように互いに監視し合うようになるということです。最後の「相互扶助」は、問題が起こらないように互いに助け合うようになるということです。
 非常に便利なシステムではありますが、当然ものごとにはメリット、デメリットが存在します。ここで、筆者の体験したエピソードを紹介します。
 小学5年生の時、臨海学校がありました。その時、ある生徒が持参が禁止されていた漫画だか何かを持ってきていることが発覚したのです。その生徒と同じ班のメンバーは、自由時間を剥奪され、延々と教師から説教されました。連帯責任です。これによって、ルール違反を犯した生徒は、同じ班のメンバーから日常的に罵声を浴びせられたり、無視されるなど半ば「いじめ」のような扱いを受けるようになってしまったのです。(しばらくしてからほとぼりもさめ、和解しましたが)
 所謂「村八分」です。連帯責任を負わされた人というのは、「自分は何も悪くないのに、あいつのせいでひどい目に遭った」と理不尽を感じ、問題を起こした本人を責めるようになるのです。この理不尽を感じるというのが大きな問題で、真面目な人ほど連帯責任に嫌悪を持つようになりやすいのです。その結果、相互扶助という考え方が消失してしまい、極端な個人主義や自己責任論に走ってしまう恐れもあるのです。
 学校における連帯責任で問題なのは、同じような思想を持った人間が好んで形成したコミュニティではないというところでしょうか。そのようなコミュニティであれば、相互扶助という考え方も育まれやすい状況ではあると思いますが、如何せん烏合の衆であることがほとんどです。「いじめ」にまでは発展しなくとも、足を引っ張りがちになる生徒は、疎まれる存在になりがちです。
 ただ、連帯責任というものは、必ずしも否定されるものではありません。きちんと機能した学校もあるでしょう。到底ひとりでは負うことができなような責任に関しては、必要になってくるでしょう。また、集団内で強者が弱者に責任を押し付けることを防止することもできます。教師としては、将来社会に出て、企業などに所属するようになると、日本という国は共同体を重んじるので、連帯責任というシステムを経験しておくべきだと言いたいのかもしれません。
 しかし、連帯責任を負わせるべきかどうかは、ケースバイケースです。何でもかんでも連帯責任という人間は、はっきり言って無能です。ここで、またひとつ、筆者の体験したエピソードを紹介します。
 小学4年生のとき、給食は班ごとに机をくっ付けて食べるようになっていました。そして、班の誰かが給食を残した場合、他の班のメンバーが代わりにそれを食べなければならないというルールがあったのです。さらに、誰も名乗り出なかった場合は、班長がすべて食べなければならないのです。そのため、班長は偏食が激しい生徒や食の細い生徒に対して、恫喝まがいの方法で、無理矢理食べさせるという光景は日常茶飯事です。楽しいはずの給食の時間が来るたびに、一部の班はピリピリしたムードが漂っていました。
 ある日、不潔で名高いある生徒がどうしても完食しようとしないという問題が起こりました。その生徒は、給食の味噌汁を着ていたTシャツにこぼした次の日、同じTシャツで登校し、乾いたワカメが付いたままだったというエピソードが残っているほどの不潔っぷりです。当然、班長はそんな生徒の残した給食を食べたくありません。必死に抗議したものの、教師に怒鳴られ、泣きながら食べさせられたのです。
 メチャクチャです。当時も問題にはなったのですが、今ならもっと大問題でしょう。こんなことまで連帯責任を負わせるなどバカげています。もう一度言いますが、何でもかんでも連帯責任という教師は無能です。
 それでは何故、無能教師はやたらめったら連帯責任を振りかざすのかというところです。連帯責任というのは、管理者側からすれば、非常に楽な方法だからです。前述した「相互監視」「相互扶助」がそうなのですが、常に生徒を監視する必要がなくなるわけです。また、何か問題が起こったとしても、それが露呈さえしなければ、連帯責任を負わされることがないので、隠蔽に走ることもあります。隠蔽されてしまえば、教師としては何も問題はなかったとして処理できますので、教師自身も監督責任から逃れることができるのです。
 何度も言いますが、何でもかんでも連帯責任という監督者は無能です。しかし、何でもかんでも自己責任という監督者も表裏一体です。あなたの周りにそんな人がいたら、バカだと思ってください。大事なのは、きちんと責任の所在を明らかにして、適切な責任を負わせることと、問題の原因を分析し、再発を防止することなのです。

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魔法のことば「連帯責任」
体育会系に多いので注意してくだい。
「友情」や「絆」を連呼する奴なんかにも注意が必要です。
一歩間違えれば、平気で「村八分」にしてきます。

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