第8回もう一度まなぶ日本近代史特別編~長州、怒りの御所進軍~
池田屋事件で大活躍した新撰組の名は、全国区となっていきます。近藤勇は、相当嬉しかったのか故郷に池田屋事件での活躍を綴った書簡を送っています。しかし、事件後も残党狩りは続きます。残党狩りを行う中、誤認捕縛もあったり、すべてが上手くいったわけではありませんでした。
明保野亭事件
新撰組は、京都東山にある明保野亭という料亭に不逞浪士が潜伏しているという情報をキャッチします。すぐさま、武田観柳斎をトップとした隊士15名を派遣するのです。さらに会津から応援として送られていた5名もこれに同行します。
現場に到着した武田らは捜査を始めますが、不逞浪士が潜伏している事実はなく、どうやらガセネタだったようです。しかし、その場にいた武士の一人が逃げ出そうとしたので、会津から応援として派遣されていた柴司は、逃走した武士を追いかけ、槍で背中を突いて捕らえました。手傷を負った武士を調べると、土佐藩士麻田時太郎であることと彼はただ飲食していただけだということも判明したのです。
会津は、柴の行為に問題はないとした上で、土佐には見舞いを送りました。土佐の方も麻田の行動に問題があったとして、穏便に解決していくつもりでした。しかし、土佐が「逃げ出した上に後ろ傷を負うなんて、武士として情けない」と麻田を切腹させたことで、事態は急転します。
当時の土佐は、公武合体を掲げており、会津との関係は良好であったものの、土佐勤皇党という尊攘派も抱えており、麻田の処分は不公平だと訴える勢力を抑え切ることができなくなってしまいました。会津も土佐との関係悪化は望んでおらず、穏便に解決するには柴を切腹させ、喧嘩両成敗とするしかなかったわけですが、柴の行為は問題なかったとしてしまったため、覆すことはできませんでした。
これを聞いた柴は、会津の命令ではなく、自分の意思で切腹することを決めます。自ら進んで腹を切れば、会津と土佐の関係悪化は防ぐことができると考えたのです。柴は兄の介錯で切腹し、会津を救ったのです。
新撰組は柴の葬儀に参列し、その死を惜しむとともに、武士としての精神に感服しました。この事件が所謂「局中法度」の「破れば切腹」の元になったのではないかという説があります。
禁門の変
前年に起こった八月十八日の政変で京都から締め出された長州は、池田屋事件に激昂し、強硬派から実力行使による失地回復が唱えられるようになりました。反対する者も少なくなかったのですが、結局強硬派に引きずられる形で長州は京都へ進軍を開始するのです。
元治元年(1864年)7月、久坂玄瑞らの反対を押し切り、ついに長州は、会津、桑名、薩摩らの連合軍と激突しました。この戦いによって起こった火事により、京都は火の海と化します。新撰組が池田屋事件で防いだはずの京都大火がこのような形で実現してしまったのです。また、この大火によって、六角獄に収容されていた囚人たちは次々と処刑されるという悲劇も起こりました。通常はこのようなことが起こると、一度釈放して、再度出頭してもらうのですが、囚人には尊攘派が多くいたため、このような措置が取られたのです。
新撰組にも応援の要請が入り、出動しましたが、その時にはすでに長州軍は壊滅状態で、掃討戦から参加することになりました。新撰組は、天王山に籠城する真木和泉を攻めます。永倉新八、原田左之助が負傷するも、最早これ以上の抵抗は不可能と見た真木らが陣に火を放ち、自刃したことで戦いは収束しました。
軍中法度
禁門の変に参戦する直前に屯所に掲げられたとされるのが、軍中法度です。戦争の際の心構えとして制定されたものですが、所謂「局中法度」という呼称は、この軍中法度を元に創作されたと言われています。
詳しい内容は、少し長いので割愛しますが、簡単にまとめると「準備は怠るな」「上官の命令に従え」「とにかく戦いに集中しろ」「逃げずに死ぬまで戦え」だとか、そんな感じです。中でも「上官が死んだらお前も死ね」という恐ろしいものまであります。
調子に乗った近藤さん
池田屋事件、禁門の変の活躍で報奨金をたっぷり貰った新撰組は、この頃から絶頂期を迎えることになるわけですが、局長である近藤勇の非行、増長が目立ち始める時期でもあったのです。そんな近藤に反発した隊士がいました。
永倉新八、原田左之助、斎藤一、島田魁、尾関雅次郎、葛山武八郎の6人は、連名で会津に対して建白書を提出するのです。その内容は、「近藤が完全に調子に乗っていて、このままでは隊の存続すらも危うい状況です。会津侯には是非、近藤に切腹を命じてもらいたいです。もし、近藤には非が無いと仰るのであれば、我々は切腹します。」というようなものでした。
やばいと思った会津は、両者の仲裁に入り、和解に成功したため、事なきを得ます。しかし、葛山武八郎のみが近藤批判の罪で切腹させられています。これは、和解成立後も強硬に反発したため、見せしめのためなどと言われていますが、真実はよくわかりません。
二番組組長や撃剣師範を務める永倉新八。
剣術の腕は、新撰組で一番とも言われる剣客。
また、がむしゃらな性格から「がむしん」と呼ばれていたそうです。
増長していく近藤勇との対立を次第に深めていき、後に袂を分かつことになります。
新撰組幹部の中で最も長生きしており、晩年に彼が語ったことが大きな資料となっています。
ただ、取材を受けた時は、おじいちゃんなので、如何せん記憶違いも多いようです。
次回は、新たな隊士を求めて、江戸へスカウトに行きます。そして、最近名前が出てこなかったあの人に何かが起こります。