第9回もう一度まなぶ日本近代史特別編~山南切腹~

文:なかむら ひろし

 池田屋事件、禁門の変で名声を獲得した新撰組は、ここから絶頂期へと突入します。名の知れた組織として、最も大きくなっていくのです。

名士伊東甲子太郎

 元治元年(1864年)9月、近藤勇は永倉新八、武田観柳斎、尾形俊太郎と共に新入隊士募集と、禁門の変を起こした長州への処分を求めて将軍上洛要請を行うため、江戸へ出立します。それに先立ち、すでに江戸に到着していた藤堂平助が新撰組入隊を勧めていた人物がいました。伊東甲子太郎です。
 伊東は、藤堂と同門の北辰一刀流の使い手で腕が立ち、文学にも精通した文武両道の名士でした。京都で隊士を募集するも池田屋事件の頃には脱走者が相次いだこともあり、武士は東男に限るということで、江戸で隊士募集を行うことになったわけですが、その目玉となったのが伊東だったのです。
 翌月、藤堂の仲介により、伊東は弟の鈴木三樹三郎、同志の篠原泰之進らと共に上洛し、新撰組に加入することになります。近藤とは尊攘思想で一致していたものの、近藤の佐幕思想とは相反する倒幕思想を持っているという矛盾を抱えていました。しかし、この時点で能力はありながら、一介の道場主に過ぎず、政局の表舞台からかなり出遅れていた伊東は、新撰組を利用しようと考えたのかもしれません。

行軍録

 元治元年11月、禁門の変で朝敵となった長州への出兵に備えて、組織の再編成を行っています。戦時における編成で、副長助勤は平隊士5名を率いる組頭となっています。また、平時では監察や勘定方を務める隊士も戦場での役割が当てられています。この編成表は、「行軍録」と呼ばれ、資料として現存しています。結局、長州が降伏したため、この布陣で長州と戦うことはありませんでした。

局長 近藤勇
副長 土方歳三
組頭
一番 沖田総司
二番 伊東甲子太郎
三番 井上源三郎
四番 斎藤一
五番 尾形俊太郎
六番 武田観柳斎
七番 松原忠司
八番 谷三十郎
小荷駄雑具方 原田左之助、山崎烝、河合耆三郎、酒井兵庫ほか

 小荷駄雑具方とは、兵糧や弾薬などの輸送を行う補給部隊です。原田は、そのトップとして部隊を統率します。後方支援という非常に重要な役割です。
 これまで幹部として、その名を連ねていた山南敬助、永倉新八、藤堂平助の名前がないことに疑問を持つ方もいると思います。山南は病気療養中、永倉は前回の局長批判により謹慎中、藤堂は江戸に残留し隊士募集を行っているため、行軍録に入っていません。
 また、加入したばかりの伊東甲子太郎が組頭となっているのは、破格の待遇で迎えられたことが伺えます。

ぜんざい屋事件

 元治2年(1865年)1月、大坂に潜伏していた土佐勤皇党の残党、大利鼎吉らが大坂の町に火を放ち、その混乱に乗じて大坂城を乗っ取ろうとしているという情報が入ります。その情報を得たのが新撰組大坂屯所(新撰組大坂支社みたいな感じです)の所長を務めていた谷万太郎でした。
 谷は、兄の三十郎、正木直太郎、阿部十郎を連れて、不逞浪士の潜伏する大坂の石蔵屋というぜんざい屋を襲撃します。多くの浪士は不在でしたが、大利を討ち取り、武器弾薬や書簡を押収しました。他の浪士たちは、騒ぎを聞いて逃亡し、大坂に駆けつけた京都の本隊が捜索するも捕らえることはできませんでした。戦いはなかなかの激戦だったようで、谷兄弟と正木は手傷を負ったと報告しています。

山南敬助切腹

 同年2月に新撰組にとって、大きな事件が起こります。試衛館以来の同志であった山南敬助が切腹したのです。通説では、山南が書き置きを残して隊を脱走し、沖田が追いかけたところ、大津で発見し、京都に連れ戻された山南は局中法度を破った罪で切腹したとされています。
 しかし、これには不可解な点も多く、脱走したという根拠も晩年の永倉が語った話だけで、他に記録は発見されていません。原因についても諸説あり、はっきりしたことはわかっていません。
 原因とされているのが、屯所移設問題です。この頃、大々的な隊士募集で大所帯となっており、今までの壬生では手狭になり、西本願寺に屯所を移そうとしていました。西本願寺は勤皇色の強いお寺で、長州との関わりがあったことから、この場所を抑えておこうとあえて選んだと言われています。西本願寺の侍臣であった西村兼文の証言によると、山南は西本願寺移設に反対していたが、近藤や土方にまったく聞き入れられなかったことが原因としています。
 他の説としては、山南は池田屋事件の直前に負傷もしくは病気で、まったく働けていません。事実、池田屋事件以降に山南が出動した記録がありません。さらに、副長からほとんど名ばかりの総長という役職に追いやられ、影響力を失っていった結果、脱走もしくは自刃したのではないかという説も存在します。
 もうひとつ、伊東の加入も影響したのではないかとも言われています。同門で勤皇思想の深いふたりは意気投合したようで、これに触発され、近藤や土方への反発を強めていったというわけです。
 真実はわかりませんが、いずれにしても近藤や土方に対する不満が鬱積していった結果というのは間違いなさそうです。山南というブレーキ役を失った新撰組は、時代の流れと共に破滅の道を辿っていくことになります。

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試衛館時代からの同志で、副長や総長という重職を担った山南敬助。
苗字の読み方は、「やまなみ」とも「さんなん」とも。
文武両道で優しく温厚な性格から隊内はおろか、壬生界隈の人々からも愛されていました。
後年、新撰組を酷評する人でもこの人だけは評価したりしています。
同じく親切者と言われた松原忠司と仲が良かったそうです。
大河ドラマ『新選組!』の堺雅人氏の好演で知名度と人気が大幅アップしました。

 絶頂期の新撰組でしたが、少しずつその歯車が狂い始めます。ここから新撰組は、下り坂を下っていくのみということになります。

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