みんな「表現の自由」っていうけど結局、なんなのさ
このフリーペーパーてんぷらって結成してもうはや6年になるんですよ。6年という時間、どのくらいすごいかを小学生で例えるなら小一の入学から小六で卒業するぐらい。あの永遠とも思えた小学校という無限のような時間。あの頃は自分が大人になるなんて微塵にも思ってなかった。多分、自分は子供という人種で大人という人種が別にいる。そのぐらいめちゃくちゃ長く感じた。それが6年ですよ。そう考えるとすごくないですか?と自分たちを褒めたい。いや褒めて讃えよ。
別にこんな自惚れを言いたいわけではないんだけど、もともとウチらって美術展を企画した時のメンバーなんですよ。こんな下世話なサイトだけどアートって意外でしょ?その当時、関わっていた人数はなんと6人。本当にいろんな人たちがいた。なんか農家の仕事をしに何処かへ消えた人もいる。ちゃんとデザインの仕事についた人もいる。本当にいろんな人がいた。作る作品もピンクローターを突っ込んだ立体造形や革マル、原発をモチーフにした作品など本当に思想も作品もバラバラだ。
けれど、集まった6人には一つ共通点があった。それは「社会に対して中指を突き立てる」ということ。
校内の公式展示なんてあまりにも不自由でつまらんかったし、その展示されている作品もトイレの壁にも貼れないような抽象画やよくある量産型ザクのような作品ばっかで見てられなかった。
そんな訳で一層の事、「もう自分たちで展示会をやっちゃおうぜ」ってなことでスタートしたのがこのてんぷら。この権力に中指を突き立てるパンクの精神がスターウォーズでいうとエピソードワンにおける砂の惑星になるわけです。
ところでみなさんは芸術の世界って自由に見えますか?自由に見える人たちは恐らくあまりその世界を知らない人であって芸術のイメージは岡本太郎なんだろうなって思います。「芸術は爆発だ」なんて叫んでいた今なら確実にマツコデラックスの番組に出てきそうな変なおっさん。彼の自由で奇抜なキャラクターイメージが今現在の日本における芸術のイメージになってないだろうか?
で、この芸術における「自由」っていうキーワードはこのところよく耳にする。やれ「表現の自由」だの「芸術の自由」をあいちトリエンナーレの一連の件以降SNS通じてもういろんな奴らがこの話題で大乱闘しているから嫌でもこの話題を目にするのである。この一件を平たくいえば反政府的な作品展だから政府が公金を打ち切って中止になったということ。まぁ詳しいことはグーグルにでも調べておくれ。
そんなわけで今回はかつて?前衛美術集団だったフリーペーパーてんぷらが「芸術における表現の自由」についての見解を考えていこうと思う。
そもそも自由ってなんなんだろうな?
いやだって自由ってよくわからなくないですか?尾崎豊がバイクを盗んで自由になれた気がした15の夜って言っていたけど、バイクを盗むアウトローなんて法律の外の自由人ほかならんよ。
これだけじゃあ「自由」というのはよくわからないと思うのでもっと手短な例えで考えればあなたが今、パソコンまたはスマホを弄って当サイトに行き着いてなんら不自由さは感じなかったはずだ。隣にこんな下世話なサイトを見て拘束しようとする憲兵やSSなんかもいないはずである。だからこの日本国において普通に生きていたら「自由」というものは侵害されることはないかと。
じゃあもう少し考えるけど家族を持っている人や束縛のキツいパートナーがいる人ならどうだろうか?これなら自由な恋愛ができないや家族の生活の維持など不自由さを感じると思う。会社にしても同じことだ。やりたくない仕事、上司からのイビリなどこれらに自信の行動が制限されることによって自由は侵害される。
だからこの「不自由さ」ってやつは自分の行動が制限されて初めて実感する。当たり前のことだけど文字にするとこういうことだ。
僕なんかは校内の展示会の講評でテーマ性を完全に否定されてしまったときはその不自由さを感じムカつきましたし、芸術っていうやつは自由なんかではないただのクソだなと思いました。赤子のクレヨンで落書きした絵と抽象画、違いがわかりますか?僕にはわかりません。
上で述べたように行動に制限が出ると自由ではなくなる。問題の愛知トリエンナーレの場合、『表現の不自由展』の中止で怒っている人たちの主張を簡単にまとめると「反政府的な作品たちの展示が出来ないのは「政府による表現の圧力」とキレている」ということ。
はい
僕個人の思想的としては別に従軍慰安婦だろうがなんだろうが反体制でも何を展示しもいいとは思うんですよ。自分たちがそれらを「美術」として捉えるなら。
現代美術なんて所詮そんなもんなんですよ。作品の美しさなんて関係ない。とりあえず美大出てそれらしいコンセプトをつけてプレゼンができたらそれで現代アートは完成する。ボブ先生のスプレーアートより簡単でしょ?一応、僕の見解としては芸術は自由であるべきだと考えているし。
つまり極端な話その辺のワンカップ片手に持っている歯が抜けたおっさんを展示会場において「現代社会の〜」とそれらしいことを言っている東京芸大の人がいればそれも作品として完成する。だから芸術ってやつにそこまで美しさを期待するのはダメなんだ。あとは展示会の主催者の趣味嗜好もあるのでそれに準じていれば全てOK。ラブイズOK。そもそもそんなもんなんですよ芸術ってやつは。
だからこの問題ってめっちゃシンプルに見れば作品の問題ではないと思うんですよね。そこにあった作品の美しさ、芸術的価値の話じゃない。この問題の本質って政府から公金を受けていることなんですよ。かなり投資としての話。
「現首相の口にハイヒールの底を差し込んでいるアート作品を展示したいのでお願いします」そんなことをして政府という虎から投資金を募れる訳がないじゃないですか?これって言って見れば『マネーの虎』で虎に対してツバを吐きつけるようなこと。普通に考えたらそうでしょ?やってることってこれと同じですからね。
多分、この一件で芸術の自由を尊重すべきと思っていても「なんか違う」と感じるのはここじゃないかと。あと監修していた津田大介が「議論が分かれる『表現の自由』という現代的な問題について議論するきっかけを作る」って言っているけど今、生きている現職の首相の口にハイヒールの底を突っ込んでいるのはやっていることって自作デスノートであって議論というより一方的に「現職総理、大嫌い」にしか見えない。これも芸術と言ってしまったら現代アートになってしまうのは事実だけど。
そもそもトリエンナーレの意味って知っていますか?イタリア語で「3年ごとの催し」という意味で、3年に一度開催される展覧会や芸術祭などを指す言葉で都市おこしの意味もはらんでいる。恐らくだけど「こんな展示会はやめろ」という人たちや「展示会続けろ」と言っている人たちはこの意味すら知らないんじゃないかな。そんな美術の「美」の文字も知らない両者ともが政治的主張がスマブラ状態で両者ともに「PKサンダー」「ウワー」ってなってぶつかり合っている状態。まさに不毛。
だから現政権に反体制的な人や憲法を守れって言っている人たちにとっては「表現の不自由展」の中止は「不自由」に感じるんじゃないだろうか?自分たちの主張が政府から否定されているようなもんだから。
だけど問題は繰り返すようだけど体制側の金で反体制的な展示会をやったから。
別に体制に従えってな話ではない。僕自身、今の体制は嫌いだ。だけど体制側から金をもらいながら反体制の展示会をするっておかしくない?って話。
だからこの「表現の不自由展」を続けたければ支援者を募って自分たちで展示会をやればいいと思うんですよ。理想論ではなく現実的に考えればたったこれだけの話。いろんなえらい人たちが「ワーワー」言っているなら金ぐらい持っているだろうし、賛同者は募れるでしょ?だったら表現の自由を守る会みたいなのを作って実費でやればいいんですよ。いつも街中で太鼓をもってデモしている人たちとかいるじゃないですか?あとギャラリーとか場所なんて金さえ出せば簡単に借りれるし、自分でやる分には完全に自由なわけだからこれが一番手っ取り早い。
僕らてんぷらも似たような反体制的な展示会を企画してやってきたましたので。
それが世間の流れに中指を突き立てる自由なパンクの精神やないかと。
それでは