やる気・努力のかつ上げ
「やる気あんのか!」「もっと努力しろ!」という言葉は、学校だけでなく、社会に出ても様々な場面で使われています。筆者がこのような言葉を初めてぶつけられたのは、小学生の頃だったと記憶しています。体育祭や文化祭といった学校行事で特に言われた記憶があります。
筆者は、強制的に参加させられる学校行事が好きではありませんでした。そのため、基本的にやる気がなく、教師ややる気満々のクラスメイトからよく責められたものでした。多くの方は、「どう考えてもやる気のないお前が悪い」と突っ込みを入れたくなるでしょう。しかし、よく考えてみてください。こいつらこそが害悪なのです。
やる気のない人間は、ただやる気がないだけです。毒にも薬にもならない、人畜無害の存在です。そんなことを言うと「いや、やる気のない奴が一人でもいると、それが集団に伝染する!」と仰るかもしれません。しかし、一人のやる気のない人間のために集団自体のやる気がなくなるなら、その集団がそれだけの存在でしかなかったというだけです。
それでは、やる気のある人間が何故害悪なのかというと、やる気のある人間は「結果」ばかりを求めることが問題です。目的地まで飛行機で一気に到着しないと気が済まず、徹底的に周りを追い込んでいくのです。これでは息苦しくて仕方ありません。やる気の強要ほどやる気を阻害するものはありません。
そして、普通電車に乗って目的地を目指すような非効率が許せないため、ゆっくり景色を眺めたり、途中下車して場末のいい店を見つけることなど連中にはできません。やる気のある人間は、「結果」を求める以外のことに関して驚くほどペラペラです。
また、同じようなタイプに努力至上主義者がいます。「結果を出している人間は努力している」「結果を出せないのは努力が足りないからだ」というスポ魂脳で、これも厄介な存在です。「結果」というものは、個人の能力だけでなく、様々な条件が重なって出るものです。例えば、度重なる苦境を乗り越えて天下統一を果たした徳川家康という人物が現代でも成功したかといえば、それはわかりません。結果を出した人間というのは、そこに血のにじむような努力があったとしても、結局は偶然によるものなのです。
それにも関わらず、この努力至上主義者は、結果のためには努力なんだと、「努力のかつ上げ」を行います。これも相手を追い込むことになり、自信を喪失させ、これまでの苦労は無駄だったと諦めさせることに繋がります。これで道を踏み外した人は数知れないでしょう。
「やる気」や「努力」に傾向する人間は、恐らく過去に「やる気を出して努力した」ことで結果を残したことがあるのでしょう。しかし、先ほど述べたように「結果は偶然の産物」なのです。そのため、「やる気」や「努力」が必ず結果に結び付くと信じてやまないのは非常に危険です。
連中が結果を残せなかったとき、口を揃えて言うのが「もっとやる気を出せばよかった」「もっと努力していればよかった」です。個人で勝手にそう思うのはまだいいとして、これが集団になると「あいつがやる気を出さなかったからだ」「あいつが努力を怠ったからだ」と他人のせいにするから迷惑でしかありません。プロセスに問題があったのではないかなど考えません。そうなると、もはや思考停止のバカと言わざるを得ません。
「やる気があること」や「努力すること」は、一般的に美徳とされます。確かに適度なやる気は必要ですし、努力なしに何かを成し遂げようなどと考えるのは愚の骨頂でしょう。それを相手から上手く引き出してあげるような人がいないわけではありません。「やる気」や「努力」自体を否定するつもりはありませんが、それを振りかざして相手を見下すような奴が本当に多いのです。
そういう連中は害悪であると言っても、「やる気」や「努力」がなまじ美徳とされているため、そのような行為でさえも批判の対象から外れてしまうというのが厄介です。こいつらは、本当に何とかしないといけません。
「やる気」や「努力」をこじらせると大変なことになります。こういう連中は、闇雲にやる気を出して努力しても結果が出ないと、やがて「やる気」や「努力」に評価を求めてくるようになるのです。言うまでもなく、「評価」は「結果」によって付いてくることが自然です。これが何かの間違いで、「やる気」や「努力」によって評価されるようになると、いつしか「やる気」や「努力」に生きがいを見出すようになってくることもあるのです。
その「結果」ではなく、「やる気」や「努力」が評価される典型的な場所が学校です。知らず知らずのうちに学校がこのような人間を量産していたのかもしれません。そして、こういう人間が学校から社会に出て、つまづくのは、さもありなんといったところでしょう。
しかし、つまづいてくれた方がまだ幸福だと思えてしまうことがあります。連中が「偶然」にも社会的に高い地位を得てしまったとき、社会に大きな悪影響を与えてしまうのです。所謂「ブラック企業」なんかがその典型でしょう。
過酷な業務に根を上げるのは、「やる気が足りない」「努力が足りない」と、企業の問題を棚に上げて、労働者に問題があるかのように言ってきます。そして、そこで生き残った人間が出世して、その成功談を元にまた新たな労働者に同じ事を繰り返すのです。まさに負のスパイラルです。
このように「やる気」や「努力」を強要してくる連中は、害悪でしかありません。我々は、「やる気」や「努力」を持っても、他人には強要せず、楽しんでやっていくべきです。そうすると、周りから「やる気のない奴だ」と思われるかもしれません。しかし、それでいいのです。無駄に熱い人間より絶対に好かれます。そういう人が周りにいた方が気が楽だからです。
あと、あまり「やる気」や「努力」に拘らない方が長続きします。一気にのめり込むと、それだけ冷めるのも早くなります。「もうちょっとやりたい」で止めるのが正解なのです。いきなり厳しい努力目標を設定したら三日坊主で終わるのです。ダラダラ繰り返すのが、非効率に思えて意外と効率的だったりするのです。
『まったくやる気がございません』と歌っていた所ジョージ氏が長く多くの人に愛されているのは、こういうところにあるのかもしれません。「気張らず、ぬるく」やっていこうではありませんか。
漫画『とっても!ラッキーマン』に出てくる努力マンをご存知でしょうか?
彼は、運の良さだけで戦うラッキーマンに嫌悪感を抱き、挑戦状を叩きつけますが、返り討ちに遭います。
しかし、ラッキーだけで負けたのに、「ラッキーマンは影でとてつもない努力をしている」と決め付け、弟子入りしてしまうのです。
作品では善良なキャラクターとなっていきますが、こういう人が現実に存在するので本当に恐ろしいものです。
努力マンのようにパンチ力をアップさせるために鉄球を殴り続けるみたいな的外れな努力をして、それを他人にも強要する人です。