第10回もう一度まなぶ日本近代史特別編~第二次長州征討へ~
試衛館時代からの仲間である山南敬助を失った新撰組でしたが、これは「終わりの始まり」に過ぎませんでした。長州征討で降伏したはずの長州が不穏な動きを見せていたのです。
西本願寺へ移転
元治2年(1865年)3月、池田屋事件以降、有名になった新撰組はたくさんの新隊士を抱えることになり、これまでの壬生の屯所では手狭になってきました。そこで屯所を壬生から西本願寺へ移転しています。
しかし、この西本願寺は、長州とのつながりが深かったこともあり、僧侶たちからは猛反対を受けます。それでも、近藤や土方は尊攘派に睨みを利かせるため、強引に移転を進めていったのです。このやり方に反対したのが山南で、これが脱走の原因ではないかという説があることは、前回書きました。
英名録
西本願寺移転後も江戸で隊士募集を続け、総勢134名にまで膨れ上がります。慶応元年(1865年)7月、この134名が記された『英名録』が作成されました。これは、島田魁の遺品として伝わっています。
局長 近藤勇
参謀 伊東甲子太郎
副長 土方歳三
副長助勤
一番組 沖田総司
二番組 永倉新八
三番組 斎藤一
四番組 松原忠司
五番組 武田観柳斎
六番組 井上源三郎
七番組 谷三十郎
八番組 藤堂平助
九番組 鈴木三樹三郎
十番組 原田左之助
監察方 山崎烝、篠原泰之進、新井忠雄、服部武雄、芦屋昇、吉村貫一郎、尾形俊太郎
勘定方 河合耆三郎、尾関弥四郎、酒井兵庫、岸島芳太郎
伊東は、入隊後しばらくすると、新設された「参謀」という要職に就き、重宝されていくことになります。弟の鈴木や篠原、新井といった伊東の勧めで入隊した人物も多く幹部として迎えられています。
大所帯となった新撰組は、10の「組」に分けられました。副長助勤がその頭である「組長」を務めます。各組長には、2人の「伍長」が付き、伍長の下にはさらに5名ほどの平隊士が付き、各組は13名ほどで編成されています。
この頃が組織として最も充実しており、一般に知られる新撰組の編成といえば、これではないでしょうか。
親切者がまた一人・・・
慶応元年9月、山南と並んで「親切者」と呼ばれた松原忠司が死亡しています。何らかの失策で平隊士に降格となり、責任を取ろうと切腹を図ったが仲間に止められて一命は取り留めたものの、その傷が悪化して死亡したとされていますが、真実はわかりません。
松原といえば、「壬生心中」が有名です。松原は、自身が殺害した不逞浪士の未亡人と懇ろになり、それを土方に咎められたことから心中に至ったというものです。非常にドラマチックな話なのですが、子母澤寛氏の創作ではないかという説が強く、史実としてはあまり認められていないようです。
第二次行軍録
慶応元年9月、第二次『行軍録』が作成されました。長州征討で降伏したはずの長州でしたが、高杉晋作によるクーデターが成功し、再び幕府に牙を剥こうとしていたのです。そのため、きちんと長州を厳処分しておかなければならないという動きになっていました。今度こそ戦争になるかもしれないと『行軍録』が改められました。
局長 近藤勇
副長 土方歳三
軍奉行 伊東甲子太郎、武田観柳斎
小銃頭 沖田総司、永倉新八
大銃頭 谷三十郎、藤堂平助
槍頭 斎藤一、井上源三郎
小荷駄奉行 原田左之助
副長助勤が8名となり、それぞれの役割が非常にコンパクトにまとめられています。こちらも戦時での編成であり、平時は前に書いたような編成で動いています。しかし、残念ながらこの編成で長州と戦うことはありませんでした。(またかい!)
近藤ら広島へ
慶応元年11月、表向きは恭順の姿勢を見せておきながら幕府とやり合う気満々という長州へ、大目付(大名の監視を行う)永井尚志が長州訊問使として派遣されることになりました。これに近藤勇、伊東甲子太郎、武田観柳斎、尾形俊太郎らが同行することになりました。
広島出立を前に近藤は、故郷に手紙を送っています。これには「自分にもしものことがあったら、天然理心流は沖田総司に継がせたい」と書かれています。
近藤は長州にとって「嫌な意味で」有名になっていたため、「近藤内蔵之助」と名乗り、広島に入りました。国泰寺で長州代表である宍戸備後介と会談を行いますが、近藤らの長州入国は認められませんでした。池田屋の一件で相当な怨みを買っていた新撰組ですから致し方ありません。
近藤らは、独自で宍戸備後介の取り巻きと接触するなどして長州の情報を探るに止まり、京都へ帰ることになってしまいます。
伊東の怪しげな行動
慶応2年(1866年)1月、永井の視察報告を受けた幕府は、長州へ正式な処分を伝えるため、老中小笠原長行を送り込みます。そして、新撰組も近藤、伊東、篠原、尾形らが同行することになります。武田が外れて、篠原が入ったのは、伊東の希望でした。
再び広島に到着した近藤らは、近藤・尾形と伊東・篠原の二手に分かれて行動することになります。そこから伊東が怪しい行動を取るようになります。次々と諸藩士たちと会談を行うのですが、長州の寛大な処分を求める「長州寛典論」を吹聴して回ったのです。これは厳重な処分を訴える幕府とは正反対のものなのです。
幕府から処分を伝えられた長州でしたが、これに応じることは決してありませんでした。幕府の方は、武力をちらつかせ、最後通牒のような形で迫ったのにも関わらずです。このとき、時代はもう大きく動き出していたのです。
新撰組の頭脳としてスカウトされた参謀伊東甲子太郎。
文学だけでなく、剣術にも秀で、イケメンで人望も厚いという完璧超人。
ただ、脳筋の行動原理は理解できなかった模様。
思想は異なるが、名前が安定しないというところが近藤さんとの共通点。
節目節目で名前を変えたがるようで、新撰組入隊の際、甲子の年だったことから大蔵から甲子太郎に改名しています。
甲子園球場と同じです。
新撰組目線の作品では、冷淡な悪役キャラっぽく描かれることが多い。
幕府の脅しにも屈しない長州。その裏では、ある密約が結ばれていたのです。次回、伊東甲子太郎が動き出します。