第11回もう一度まなぶ日本近代史特別編~伊東分離、御陵衛士とは?~
第二次長州征討に向けて、近藤たちが出張している間に、京都では内部粛清が行われていました。しかし、その詳細は謎に包まれており、はっきりしたことはわかっていません。
米問屋から新撰組、その最期とは
播磨(現在の兵庫県)の米問屋で生まれた河合耆三郎は、早くから新撰組に入隊し、商人であることから勘定方として活躍しました。また、裏方としてだけでなく、池田屋事件にも参戦し、褒賞金も貰っています。
そんな河合に悲劇が訪れます。慶応2年(1866年)2月、何らかの理由で公金を紛失してしまい、実家に穴埋めのための資金を用立てるように依頼しました。しかし、実家からの送金が遅れてしまい、公金紛失が発覚してしまいます。そして、河合は切腹を命じられるのです。遅れていた実家からの資金は、切腹直後に届けられたと言われています。
河合粛清の理由は、不明な部分が多く、公金紛失が単なるミスなのか、横領なのか、まはたまた反乱を企てていたのかなど諸説あります。公金紛失などなかったとする説まであります。
勘定方という地味な役割のため、知名度は高くありませんでしたが、大河ドラマ『新選組!』で河合を演じた大倉孝二氏のコミカルな演技がうけて、広く知られるようになりました。
謎の死
慶応2年4月、七番組組長を務めた谷三十郎が死亡しています。しかし、その原因はまったく不明です。新撰組の中で最も謎の死を遂げた隊士のひとりと言えるでしょう。
一般には、弟の谷周平が近藤の養子になったことから、大きな態度を取るようになり、隊内で嫌われていたとされています。そのことから、内部の人間(斎藤一とされることが多い)に暗殺されたとする説や長州系尊攘派によって暗殺されたとする説もあります。
幕府軍大敗
新撰組が内部でゴタゴタしている間に、幕府による長州処分案を受け入れない長州に対して、ついに第二次長州征討が決行されることになりました。慶応2年6月、幕府軍は圧倒的な兵力差で長州に攻め込んでいったのです。
しかし、長州相手に幕府は連戦連敗を続けます。実は、同年1月に薩長同盟が成立していたのです。薩摩の支援を受けた長州は、近代兵器で武装し、士気も高かったため、旧式の武装で士気も低い幕府軍を圧倒したのです。その最中、将軍徳川家茂が病死し、難攻不落といわれた小倉城も落ち、8月には幕府は将軍の死を名目に長州征討を中止することになりました。
この時点で新撰組は、時代に取り残されていたのです。ライバルであったはずの長州には、大きな差をつけられていたのです。
三条制札事件
禁門の変以降、幕府によって京都三条大橋西詰に朝敵となった長州の罪状が書かれた制札(立て札)が立てられていました。しかし、幕府が第二次長州征討に失敗した後、何者かによって制札が何度も引き抜かれるという事件が起こるようになりました。そこで、新撰組に制札の警備が命じられたのです。
慶応2年9月、三条会所に原田左之助ら12名、町屋に大石鍬次郎ら10名、酒屋に新井忠雄ら10名が待機、そして浅野薫、橋本皆助が現場を監視するため、変装して橋の下に待機していました。すると、藤崎吉五郎、宮川助五郎ら土佐藩士8名が現れ、制札を引き抜いていったのです。
橋本がすぐさま原田隊、新井隊に知らせると、現場は乱闘になりました。しかし、恐れをなした浅野が大石隊への連絡を遅らせてしまったため、当初予定していた包囲作戦に失敗し、藤崎を斬殺、宮川を捕縛したものの、6名を取り逃がしてしまったのです。(逃走した安藤鎌次は、重症のため翌日自刃しています)
事件後、土佐側が近藤、土方らを祇園に招き、詫びを入れたことで、事件は落着しました。この事件で失態を犯した浅野は、新撰組を追放されたとされていますが、阿部十郎によるとまだ隊には在籍していたようです。
伊東分離
この後、時代は大きく動いていきます。12月に徳川慶喜が15代将軍に就任するも、直後にその後ろ盾となっていた孝明天皇が崩御し、薩長に流れが傾いていきました。伊東甲子太郎は、佐幕思想が強くなる近藤らに尊皇思想を説きますが、受け入れられません。そこで、伊東は新撰組からの分離を考えるようになったのです。
慶応3年元旦、伊東は同志を引き連れ、島原に出かけます。その時、近藤の盟友である永倉新八、斎藤一も誘って連れ出していました。元旦から3日まで島原で遊び続けた伊東らは、謹慎処分を受けますが、これは新撰組で最も優れた剣術の使い手である二人を自派に引き込むために工作だったのです。
18日になると、伊東は新井忠雄らを連れて九州遊説に出立します。この間、盟友の篠原泰之進に尊皇思想の強い僧侶に接触させ、孝明天皇の御陵(お墓)守護のための役職「御陵衛士」を新設してもらい、その役職を拝命していたのです。
京都に帰った伊東は、「御陵衛士」拝命と薩長の動向を探るためという名目の下、新撰組からの分離を近藤・土方に訴えます。この案は、受け入れられることになり、伊東らは正式に新撰組から分離することになりました。
御陵衛士
分離した伊東らのグループは、「御陵衛士」や後に高台寺を屯所としたことから「高台寺党」と呼ばれました。伊東と共に新撰組から分離したメンバーには、弟の鈴木三樹三郎、盟友の篠原泰之進、新井忠雄、加納鷲雄らの他に近藤との親交が深かった藤堂平助、斎藤一もいました。
伊東らは、八月十八日の政変で都落ちした公卿や土佐の中岡慎太郎などの尊攘派志士たちと接触したり、朝廷と幕府に長州への寛大な処分を奏上するなど尊皇運動を行いました。しかし、新撰組にも薩長の動向をきちんと報告しており、所謂「二重スパイ」のような動きをしていました。ただ、新撰組との関係は良好で、これといった問題は起こりませんでした。
監察方や伍長を務めた島田魁。
実は、近藤勇よりも井上源三郎よりも年上だったりします。
明治維新後も生き残り、新撰組の汚名返上とその功績を後世に伝えるため、『島田魁日記』などを残しました。
それらが現在の新撰組研究に大きく貢献しています。
大の甘党として知られ、彼が作った大量の砂糖を使ったお汁粉は、甘すぎて誰も食べられないほどだったとか。
次回は、新撰組にとって最も喜ばしいニュースが舞い込みます。しかし、分離後も友好的な関係にあった御陵衛士との間に、亀裂が生じるようになっていくのです。