学校という閉鎖空間に縛られてはいけない
この世の中には、自分とまったく異なる価値観を持った人間が存在します。新しい価値観に触れることは重要で、自身の視野を広げ、成長につながったりします。しかし、どうしても理解できない価値観というものも同時に存在します。絶対に理解し合えない人間というものが存在するのです。
筆者の場合、不良とかDQNと呼ばれるような人間やお洒落じゃないと正気を保てないような人間とは、一生仲良くできることはないでしょう。読者の皆さんの中にも必ず、どうしても仲良くできないという人間がいるはずです。
そんな同じ日本国民、同じ人種、同じ言語を話したとしても、明らかに異質な人間が存在するにも関わらず、「皆同じ人間なんだ」というウソを教え込んでくるのが学校です。
学校というものは、様々な価値観を持った人間が閉じ込められた場所です。特に公立の小中学校なんかは、住んでいる場所が同じ学区だというだけで、同じ学校に通っています。そんな烏合の衆が分け隔てなく仲良くなどできるわけがないのです。
生徒たちは、価値観を共有できるような人間をそばに置くようになり、価値観をおよそ共有できそうにない人間とは距離を置きます。これは、至って自然な流れです。
しかし、教師はこれを「グループ化」だと言って、問題視してくることがあります。どこのグループにも属することができなかった生徒が仲間外れにされ、所謂いじめに発展するのではないかなどというのが、その大きな理由でしょう。
確かに、どこのグループにも属することができなかった生徒は、所謂いじめにまで発展しなくても孤独に苛まれることになるでしょう。それを防ぐためといって、彼らを無理にどこかのグループに所属させると解決するかといえば、それは違います。
誰かと一緒にいても孤独を感じるなんていう話は、普通によくある話です。価値観を共有できない異質な人間と一緒にいることは、ストレスにすら感じます。
人間は、孤独を忌避する生き物です。孤独を恐れるあまり、自分を偽ってでも、どこかのグループに属することを選ぶ人は少なくありません。そのようにして出来上がったグループというのは、本来の意味での友達が集まったグループではありません。その結果、グループは疑心暗鬼に陥ることになります。いつ自分がグループから外されてしまうかもわからないと考え、とんでもない方向に力が働くことがあるのです。
集団が形成されると、「場の空気」という目に見えないものが現れます。とりわけ日本という国は、「場の空気」というものに支配されやすい傾向にあると言われます。数年前に「KY(空気が読めない)」という言葉が流行りましたが、場の空気を読めない言動をすることは悪だとされます。そういう場面もないわけではありませんが、かえってそれが悪影響を及ぼすことも少なくありません。
場の空気を読めないことは悪ですから、場の空気に従うように同調圧力が生まれます。これによって、場の空気を作り出すグループの中心人物以外の自己主張が許されなくなるのです。そのようなグループからさっさと足を洗うことができれば良いのですが、グループからの離脱=孤独しか待っていないと考え、それに従ってしまうのです。この同調圧力に攻撃性が加わると、さらに厄介なことになります。
極端に孤独を忌避する人間は、孤独な人間が許せず、バカにしたりします。これは孤独に限った話ではなく、勉強ができないことを恥だと考える人間は、勉強ができない人間をバカにします。このように、自分がこうであるべきだと思うことと反する人間は、嘲笑の対象となるのです。
また、集団の結束力を強める方法のひとつとして、共通の敵を作るというものがあります。利害関係が一致することで、協力関係が出来上がるのです。
この2つが合わさると、所謂いじめに発展することがあります。孤独を埋めるために集まったグループというのは、他に共有できる価値観が希薄であることが多く、他者を攻撃することでしか結束できなかったります。また、いじめのような行為には反対でも同調圧力に負けて、いじめに加担してしまうこともあります。
このように、グループ化自体に問題があるというのではなく、グループ形成までのプロセスに問題があると危険だと言えます。もしくは、そのグループに属する人間自体に問題があるのです。本来の意味での友達関係で結ばれていれば、そのようなことは起こりにくいものなのです。
筆者が小学5年生か6年生の頃、グループ化が問題になったことがありました。特に特定の生徒が仲間外れになったり、所謂いじめ問題があったというわけではなかったのですが、担任は常に同じ生徒同士がつるんでいることが気に入らなかったのでしょう。
そこで、「全体遊び」というものが導入されました。「全体遊び」とは、昼休みになるとクラス全員でドッジボールや鬼ごっこといった遊びをするというものです。当然、ドッジボールなんてやりたくないという生徒も強制的に参加させられますし、一緒に遊びたくもない生徒とも遊ぶことを強制されます。
これでクラス内のグループの壁が壊れて、全員が仲良くなったのかといえば、そんなことはまったくありませんでした。自由であるはずの昼休みを奪われ、不満が出ないはずがありません。全員が仲良くなるどころか、誰が真面目にやってないだとか、誰がバックれただの紛争が起こるようになりました。
結局、同類がグループを形成することは自然の摂理であり、強引に異質な人間同士をくっ付けることなど不可能なのです。むしろ、異質な人間同士をくっ付けることこそが不幸の始まりでしかないのです。
グループ化による閉塞感を問題視するなら、学校ないしクラスという閉鎖された空間自体に問題があるのだから、説得力を持ちません。交流関係は、学校外に求めるべきです。行動範囲の限定される小中学生は、学校で友達ができないともう終わりだと絶望してしまいがちですが、いくらでも外の世界があることを認識させるべきです。
大学で所謂いじめ問題をあまり聞かないのは、クラスという閉鎖空間に閉じ込められることがなく、行動範囲が広がったことで、外の世界に触れる機会が圧倒的に増えるからでしょう。これがまた、企業に就職してしまうと閉塞感を味わうことになったりするのですが・・・
今回のまとめとしては、決して理解し合うことができない人間は世の中にいて、無理にそのような人間と付き合う必要はなく、むしろ明らかに異質な人間と付き合おうとすることが不幸の始まりであるということがひとつです。また、馴れ合いではなく本当の友達関係を構築すべく、交流関係は広く求め、行き詰ったと感じたら、さらに外の世界にある新しい価値観に触れてみるということがひとつです。
筆者もかわいい女の子とキャッハウフフやウェーイできるリア充グループに憧れていた時期がありました。
ところが、彼らとは住む世界が違いました。
いざリア充グループに入ってみると、楽しくも何ともなかったのです。
異世界へデビューするためには、映画『マイ・フェア・レディ』のような特別な訓練が必要なのです。
それが苦にならないのであれば、私は止めません。
さぁ、お行きなさい!