第12回もう一度まなぶ日本近代史特別編~惨劇、油小路~
幕府軍が第二次長州征討に失敗し、これまで幕府を支持してきた孝明天皇も崩御してしまい、時代の流れは薩長に傾きつつありました。そんな中、近藤や土方にとっては、非常に嬉しいニュースが舞い込んでくるのです。
念願の御目見得格
慶応3年(1867年)6月、新撰組が幕臣に取り立てられることになりました。実は、これまでにも直参取り立ての打診はあったものの、将軍にお目見えする(直接将軍と会うことができる)ことが許されない身分であったことや隊内の尊皇攘夷派を気遣って、断り続けていました。しかし、今回は違います。なんと将軍に御目見得が許される身分での取り立てだったのです。
これにより、近藤勇は「見廻組与頭格」という将軍にお目見えすることができる直参旗本クラスにまで出世したことになります。これは、近藤にとって悲願の達成であり、涙を流すほど嬉しいことだったのです。農民から直参旗本ですから、草野球からメジャーリーガーぐらいの出世です。
副長の土方は「見廻組肝煎格」、沖田ら副長助勤は「見廻組格」となり、御目見得は許されないものの、平隊士まで直参となりました。これで新撰組は、名実ともに完全な佐幕派集団となったのです。
しかし、これが隊内の尊攘派を刺激してしまい、大きな問題に発展してしまいます。
死んでも直参なんてなりたくない!
多くの隊士たちは、直参取り立てに喜びましたが、茨木司、佐野七五三之助、中村五郎、冨川十郎ほか6名は、伊東甲子太郎に近い勤皇思想で、直参取り立てなど考えてもいません。それに「忠臣は二君に仕えず」という武士道精神を重んじていたため、猛反対しました。
新撰組の隊士たちは、会津公に仕えています。しかし、直参になるということは、徳川将軍家に仕えるということです。仕える人物を替えるということは、武士道に反することなのです。
彼らは新撰組を脱走し、伊東甲子太郎の元へ向かい、御陵衛士への加入を求めます。しかし、伊東は分離の際に新撰組と約束した「お互いの隊への移籍の禁止」に則り、これを拒絶しました。ただ、そのままにしておくと局中法度により切腹させられてしまうので、会津へ掛け合ってみてはどうかと助言します。
次に、会津に「直参取り立ては武士道に反するので、新撰組を脱退したい」と訴えます。会津側はこれに反対し、説得にあたりますが、納得することはありませんでした。困った会津側は近藤らに知らせて、直接説得するように命じました。
しかし、近藤らとの交渉もなかなか進みませんでした。そこで、茨木、佐野、中村、冨川の4名は直参取り立てを認め、新撰組に残留するので、ほか6名の脱退を認めて欲しいという妥協案を打ち出します。近藤らも、それでまとめようということで、この件は落ち着くはずでした。
茨木ら4名は、「4人で話したいことがあるので」と別室に移動します。ところが、4名はいつまで経っても戻ってきません。様子を伺ってみると、4人は自刃していたのです。
近藤らは、茨木たちの武士道精神を評価し、葬儀を行うとともに、残された6名に関しては、望み通りに脱退を認めました。
帰ってくれ新撰組
茨木たちの葬儀が行われた日、新撰組は屯所を西本願寺から不動堂村に移転しました。これは、西本願寺側の要求を飲むかたちでした。
西本願寺は元々長州に近い、勤皇色が強いお寺だったにも関わらず、強引に移転してきたこと、境内で軍事訓練を行い、大砲を撃ったりもすることに我慢ができなくなっていました。そこで、西本願寺が全額を負担して、不動堂村に新しい屯所を建てたのです。新しい屯所は、新撰組が喜んで移転するように超豪華仕様だったそうです。
かつてブレーンと呼ばれた男の最期
この頃になると、薩長だけでなく、フランスと接近した幕府も西洋式の軍学を採用するようになっていました。新撰組も西洋式軍学を取り入れ、訓練を行うようになりました。それまで採用されていた甲州流軍学は、もはや時代遅れのものとして見られるようになったのです。
甲州流軍学を修めた武田観柳斎は、次第にその存在感がなくなり、御陵衛士や薩摩と接触するなど、不穏な動きを見せるようになっていきました。新撰組が直参に取り立てられた頃には、隊から離れており、裏切り者として新撰組に斬殺されることになったのです。
武田殺害に関して、斎藤一や篠原泰之進が関与していたという説がありますが、2人は御陵衛士に参加しているので、現在はこの説に否定的な意見が多いようです。
せっかく幕臣になったのに・・・
近藤は、御目見得格の幕臣となってから要人との会談に参加するようになりました。その中でも土佐の後藤象二郎が有名で、何度かやり取りを行っています。しかし、そんな時間は長くは続かなかったのであります。
慶応3年10月、なんと徳川慶喜が大政奉還を行ったのです。(詳しくは本編19回、20回を参照してください)徳川が政権を朝廷に返上するということは、幕府がなくなるということです。幕府がなくなるということは、幕臣も幕臣でなくなるということです。念願の直参御目見得格からたった数ヶ月で、徳川家の使用人という身分になってしまったのです。
正確かどうかはわかりませんが、現在で例えると国家公務員という身分が保障された立場から、民営化して一般企業のサラリーマンになったというところでしょうか。この時点で徳川家は、日本一の経済力と軍事力を持った大名ですから、日本一の大企業のサラリーマンになるわけですが。
嘘か?真実か?幹部暗殺計画
大政奉還から1ヶ月が過ぎようとした頃、新撰組の元へ斎藤一が帰ってきます。斎藤は、御陵衛士にスパイとして送り込まれており、彼が言うには、「御陵衛士が新撰組幹部の暗殺を目論んでいる」とのことでした。伊東は薩摩と内通していたが、元新撰組という肩書きのため、なかなか信用されず、信用を勝ち取るために新撰組幹部を暗殺しようとしていると言うのです。
通説ではこのようになっていますが、実は伊東が薩摩と内通していたという証拠は見付かっていません。また、武力倒幕を目指す薩摩と伊東の思想はまったく異なっています。新撰組幹部暗殺計画についても、斎藤の証言しか残っておらず、真実かどうかはわかっていないのです。
反対側の意見としては、御陵衛士の生き残りである阿部十郎の証言によると、斎藤は女にだらしなく、遊女に多額をつぎ込んでおり、御陵衛士の資金にも手をつけていたため、居場所を失った斎藤が新撰組に復帰するために嘘をついたのではないかという説もあります。ただ、阿部は新撰組に怨みを持っていて、新撰組の悪口を言いまくっていることから、彼の証言は公平性を欠くという部分はあります。
近藤らは斎藤の証言を信じるわけですが、その理由として、長州を厳しく処罰するべきと考えていた近藤にとって、伊東の吹聴していた長州寛典論が許せなかったというのがあります。また、新撰組の中で御陵衛士の人気が高まり、移籍することを望む者が増えたという問題もあったことから、この機会に御陵衛士を潰すべきとなったのです。
油小路の変
一方、御陵衛士は新撰組から資金提供を受けて活動していたこともあり、新撰組から狙われているなど微塵も感じていませんでした。茨木、佐野らの自刃事件の時も新撰組との約束を遵守しており、思想の違いはあったものの、敵対するような行動は取っておらず、むしろ必死に説得しようとしていたぐらいです。
慶応3年11月18日、坂本龍馬や中岡慎太郎が暗殺された3日後に、伊東は近藤に呼び出されます。活動資金のことも含めて、2人で語り合いたいとのことでした。伊東は1人で近藤の元へ向かいました。お酒を飲み、酔いも回った帰り道、伊東は近藤の刺客である大石鍬次郎らによって殺害されてしまいます。
伊東の遺体は、京都油小路の辻に放置されました。御陵衛士は、そのことを聞きつけて、遺体の回収に向かいます。罠だと知りながらも、伊東先生の遺体をそのままにはできなかったのです。現場に駆けつけた藤堂平助ら7名は、新撰組40名から50名に囲まれており、乱闘となりました。
この戦いで藤堂、毛内有之助、服部武雄が討ち死にしました。近藤は、試衛館時代からの仲間である藤堂だけは助けたかったそうですが、事情を知らない新入隊士によって斬殺されました。また、隊内でも随一の剣の使い手であった服部の奮戦で4名は逃走に成功しましたが、現場は血の海、肉片飛び散りまくりの悲惨な状態だったそうです。
伊東甲子太郎の盟友、篠原泰之進。
新撰組では、監察方や柔術師範を務めました。
御陵衛士拝命は、彼の尽力によるものだとか。
近藤らを説得し、新撰組を勤皇に変えたかったのですが、聞き入れられることはありませんでした。
油小路の変で難を逃れた彼はその後・・・
御陵衛士を壊滅させた新撰組でしたが、近藤はその報いを受けることになります。次回、新撰組と薩長の戦いが始まります。