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検証!打ち上げは参加するべきか!?

文:田渕竜也


百害あって一利なしとは言うけれども、大人になれば酒というものがカッコがつく様になる。例えば塩をあてに焼酎を呑むような姿。

まぁこれは大学二回生になると突然発症すると言われる「大二病」っていうヤツなんだけれども、そういうやつはもれなくギャンブルもついてくる。
食事に行けばビールで乾杯、頼んでもいないビールが空いているコップに注がれ、大二病発症せずともどのみち大人になれば「酒を飲む」という行為からは逃れられない。この日本社会においてはどうやら酒というものが飲めるのは大人の証らしい。

そして酒は人との付き合いだけではなく自問自答、その日の忘却に至るまで一種の合法的な大人のストレスのはけ口にもなっている。ストロングゼロなんてその一例だろう。前にアメ村で知り合った謎のカナダ人はジャパニーズコカインと言って飲んでたし。すごいぜ、ストロングゼロ。

そんなわけで酒というものは大人にとっては特別なものなのである。

ところで皆さんは「打ち上げ」って好きですか?
そう、飲み会のことです。バンドマンにつきもののあれ。ライブが終わってからのあれ。

大人の社会に一歩出ると「打ち上げ」というものが執り行われる様になる。つまり飲み会。今更、打ち上げというものを説明するのもアレだけど、何かが終わったあとにみんなで集まって飲み会をする行為のこと。
もちろんこの飲み会という言葉の定義の中にはアルコールだけじゃなくてソフトドリンクも飲み会の中に入るし、広い意味ではお洒落なカフェ巡りなんていうものも飲み会に相当するだろう。だから打ち上げをするなら居酒屋に限らず、カフェをお茶会でも成立する。ただ、一般的には居酒屋へ行くのが大抵のルート。

昨今では飲み会離れや忘年会離れと言ってもそれはごくごく一部なもんでやっぱり社会的には飲み会というものは出て当たり前というのが圧倒的多数派だ。それに一杯目はビールという変な暗黙の了解みたいなのも未だに多数派。
多数派が絶対正義の民主主義の上、流されやすい日本人の特性からしたらこれに該当しない人にとってはめんどくさい極まりない。「俺はレモンサワーがいいんだー」っていっても圧倒的多数派のビールが注がれる。
また、逆に飲み会に行かない、一杯目はコーラというものは少数派なもんでそういう集まりごとが苦手な人にとってはなお生きづらい世の中であることには変わりない。

そこで今回は打ち上げについて徹底的に考えていきたい。

ちなみに僕個人の意見で言えば打ち上げそのもの自体は嫌いじゃない。酒を飲むのは嫌いじゃない。ただ「行く人たちによる」というポイントが大きい。

飲み会が面倒くさいというポイントは大きく三点に分かれるだろうと思う。

先ず、打ち上げっていうものがなぜめんどくさく感じるか。言われて渋々いったり、なんとなく流れや惰性で行ってしまうけど内心やっぱり面倒くさい。
その理由として最初に思い浮かぶのは知らない人と行くのが辛いというのがあると思う。
例えばいつも周星馳の映画やデスメタルの話で盛り上がるならシラフでも楽しい。けどその集まりがバチェラーの話しか通用しないところでは僕の脳ミソにはバチェラーという番組の言語が組み込まれていないから会話が出来ない、またはカタコトの英語のような受け答えしかできない。
そもそもバチェラーに対して「トライアスロンやってそうな男をアラジンのジャスミンみたいな女の人が取り合うんだろ」とか「意識高い男女のしょうもないエスポワール号なんだろ」ぐらいの偏見しかない。これでは沈黙だ。なにも話すことがない。

そこで使ってしまう一手がアルコールのチカラ。脳の偏差値を下げるという暴挙である。
おそらくなんだけどこういった言語が通用しない場が苦手なコミュ症ほど沈黙というものに恐怖を抱いているのではないかと思う。とにかく複数人の沈黙が怖いんですよ。
だからシーンとなった場では「やばい、なんとかせねば!」と変な強迫観念が迫ってきて必死になってしまう。そして酒が進む進む。そしたら喋る喋る。酔ったチカラを借りて自尊心を喪失させる。男はつらいよの第1作目の寅さんの妹さくらの見合いでの席の寅さんを思い起こしてもらえればわかりやすいだろう。
ただ、このやり方はやっぱり健康的ではない上、結局帰ってから「なんでこんなしょうもないものに3500円も取られんだ」と自己嫌悪に陥ってしまう。

時間と金。有限あるものが消えていくことって人間にとって嫌悪を抱くもので、こういったバチェラーの話ししか通用しない場では無益どころか「寿命をすり減らして、金をドブに捨ててる」と捉えてしまう。だから共通の言語がない場ではどうしてもめんどくさく感じてしまうのである。

また、酔っ払うこと、酔っ払いの対応などの嫌悪もある。いやーこわいですからね。酔っ払うっていう行為は。酔っ払いってアンデッドですからね。人語は通用しないし、なんだったらあいつら暴れる。
だけど、飲み会の席では自分もそのアンデッドになるリスクも付いてくる。慣れない人たちやその時の体調次第ではえらいことになってしまう。

あとはその場のノリがしんどいという感覚もあるかと思う。とくに20代前半の頃なんて無茶な飲み方をする飲み会がほとんどだろう。なんかゲームに負けたら一気飲みとかなんか場を乱せば一気飲みとか。あいつらは何かにして一気飲みを強要してくる。そ
んなノリを目の当たりにしていたら飲み会に行くのも嫌になるだろうと思う。そもそも大二病の人って酒を語るわりにはその酒を罰ゲームに使う傾向にある。だったらこいつらって酒の味が好きとかなんじゃなくて、それを持っている自分に酔っているなんじゃないだろうか。

こうやってみたら一方的に時間、金、体力が削がれてこんなものになんのメリットもないと思ってしまう。だけどこういったしょうもない飲み会でも参加することへのメリットがあるのも事実である。
例えば普段絡まない人と話せるという点や知り合いは増えるなどがある。形はどうであれ何かしらの接点にはなる。

だけど僕としてはやっぱりこういった飲み会へは行かないほうがメリットがでかい。昔、何かの気の迷いで脳みそが多動力みたいな人たちの飲み会に出たことがあったんだけど、酒のチカラを借りて自尊心を下げて町田康についてしゃべり狂っていたら退場させられたことがあったし。その上、バチェラー通の知り合いが増えても意味がないからね。

ではどういった飲み会に参加したら意義があるかというと、自分が持っている言語が通用する飲み会。つまりバンドマンならライブ後の打ち上げや気の知れた人たち。これなら行くメリットは十分にある。自分が喋ってても惨めな思いもしないから。これなら時間も金も有意義だ。

打ち上げに行くか行かないかは基本的に個人の自由だけど、自分の持っている、または知っている言語がある打ち上げなら極力出たほうがいいよ。例えばバンドマンの打ち上げなら後のイベントの誘いがあったりするし、人当たりの良さや顔の広さも重要になってくる。
あと、居酒屋に行かなくても公園でやすい缶チューハイで楽しめる人たちは大事にしたほうがいいよ。

っていうなんてことのない落としどころだけどこれにて。

それではまた。

田渕竜也のTwitter

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