第13回もう一度まなぶ日本近代史特別編~勃発!戊辰戦争~
徳川慶喜が大政奉還を行い、徳川幕府の歴史に終止符が打たれました。しかし、慶喜は新体制においても自分が主導権を握ることを決して諦めていませんでした。一方、新撰組は幕臣となり、油小路の変で御陵衛士を壊滅させるなど、佐幕一直線の道を進んでいました。
天満屋事件
油小路の変の発端となったのが、御陵衛士から新撰組に戻った斎藤一の証言でした。その証言は、伊東甲子太郎らが新撰組幹部の暗殺を企んでいるとのことでしたが、斎藤をそのまま復帰させてしまうと、御陵衛士の計画が漏れていることがバレてしまいます。そのため、斎藤はしばらく姿を隠すことになります。そこで、斎藤を預かったのが紀州藩士三浦休太郎でした。斎藤はこの時に山口二郎と改名しています。
紀州は、坂本龍馬率いる海援隊が借り受けていた「いろは丸」という蒸気船と紀州の軍艦「明光丸」が衝突し、いろは丸が沈没するという「いろは丸沈没事件」で海援隊から賠償請求を受けていました。その交渉に当たったのが三浦休太郎という人物でした。三浦は国際法を用いた坂本龍馬に敗れ、紀州は多額の賠償金を支払うことになったのです。
その後、坂本龍馬が暗殺されたことにより、その黒幕は三浦、実行犯は三浦と近しい新撰組に違いないという説が当時からあったのです。(実際、佐幕派は坂本龍馬を守ることはあっても、暗殺する理由などないのですが)海援隊から命を狙われることになった三浦は、警護を新撰組に依頼することになったのです。
慶応3年12月17日(1868年1月1日)、海援隊ら16名が三浦が天満屋にいるという情報を得て、襲撃することになりました。三浦ら紀州藩士と警護を任された斎藤一、大石鍬次郎ら新撰組隊士7名は、酒宴を開いているところでした。
不意を突かれる形となった新撰組でしたが、三浦を逃がすために奮戦します。斎藤も背後から斬りかかられ、危うく命を落とすところでしたが、なんとかこれを撃退しました。しかし、新撰組も死者2名を出すなど、かなりの被害を出しています。
御陵衛士の報復
大政奉還を行った徳川慶喜でしたが、新体制でも主導権を握る気でいました。薩長は、そんな慶喜を排除するべく、クーデターを起こし、王政復古の大号令を発します。これにより、辞官納地(官位と土地の返上)が慶喜に命ぜられます。慶喜は薩長との武力衝突を避けるため、会津、桑名藩兵を引きつれ大坂城に移ります。大坂城に引きこもった慶喜でしたが、ただ引きこもっていたわけではありませんでした。(詳しくは本編20回、21回を参照してください)
将軍が大坂に移ったことにより、新撰組は薩長と戦争になれば、その最前線になるであろう伏見の警護を命じられます。その新撰組の動向を念入りに探っていたのが御陵衛士の残党でした。油小路の変の後、薩摩に匿われていた彼らの多くは、薩長と協力することになります。
慶応3年12月18日、二条城で行われた軍議に参加した近藤勇は、伏見奉行所に帰る途中で元御陵衛士の阿部十郎らに襲撃されます。銃で右肩を狙撃された近藤は馬を走らせ、なんとか伏見奉行所に逃げ帰りましたが、再び剣を振るうことができない(武士としては死んだ)状態になったといいます。負傷した近藤とこの頃には肺結核が悪化し、まともに任務を行うことができなくなった沖田総司は、大坂へ下っていきました。近藤不在の間、新撰組は副長の土方歳三が仕切ることになります。
鳥羽伏見の戦い
王政復古の大号令で大坂城に引きこもった徳川慶喜でしたが、その政治力を発揮して、まだまだ権力を振るい続けていました。そこで薩長は、更なる挑発を仕掛けたのです。
ターゲットとなったのは江戸でした。浪士たちに強盗や放火といった狼藉を働かせ、堂々と薩摩が匿ったのです。この江戸で狼藉を働いた赤報隊には、元御陵衛士の多くが参加することになります。
旧幕府軍はこれに激怒し、慶喜もこれを抑えることができず、ついに薩長に対して進軍を開始しました。慶応4年1月3日(1868年1月27日)、鳥羽で薩長軍と対峙した旧幕府軍は、すぐさま戦闘状態となり、その砲声を聞いた伏見でも戦いが始まりました。鳥羽伏見の戦いです。以降の薩長を中心とした新政府軍と旧幕府軍との一連の戦いをまとめて戊辰戦争と呼びます。
伏見奉行所に布陣していた新撰組は、高台にある御香宮に布陣した薩摩から一方的に砲撃を浴びます。なんとか押し返しますも地形的に不利として、淀へ後退することになりました。
1月4日、部隊を立て直して、反撃に転じようとしますが、この日、錦の御旗が翻り、薩長が官軍となったことで、旧幕府軍はピンチに陥ります。土佐をはじめ、薩長に味方する藩が続出したのです。さらに賊軍となった旧幕府軍の士気も低下します。その結果、再び淀へ後退させられています。
1月5日、千両松に布陣した新撰組は、会津と共に長州軍と戦いますが、歴然とした武装の差により、井上源三郎ら14名が戦死するなど、甚大な被害を出し、撤退します。さらに淀藩が旧幕府軍が淀城へ入ることを拒否したため、八幡方面へ後退することになります。
1月6日、山崎を守っていた津藩が突如寝返り、旧幕府軍へ砲撃を開始します。これにより、旧幕府軍は京都方面での戦いを諦め、大坂への撤退していきました。しかし、大坂城にいたはずの最高指揮官の徳川慶喜は、松平容保、定敬兄弟を連れて江戸へ逃亡していたのです。
残された旧幕府軍は、戦争目的を失い、江戸や自分の藩へと帰還していきました。新撰組も江戸に帰っています。
諸士調役兼監察方を務め、裏方として活躍した山崎烝。
初期から重宝されたのは、何でも出来る有能な人物だったからだとか。
諜報活動だけでなく、武芸にも秀で、集金力もあり、医療もできるという器用っぷり。
鳥羽伏見の戦いで重傷を負い、江戸へ帰還する軍艦内で死亡し、水葬されたそうです。
江戸に帰った新撰組でしたが、誤算アンド誤算アンド誤算で、崩壊していくことになります。