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歪な家族愛『リメンバーミー』にみる愛という名の呪詛

文:田渕竜也


周りの評価と自分の評価とで真っ向から正反対の評価になることって結構あるかと思う。例えばいくら周りで「この映画泣けたー」とか「映像は最高」って言われても僕個人がどうしても許せないシーンがあるせいで全く別物の作品に映ってしまい、好きになれなくなる。周りとその映画の話をしていて「あれ?俺もしかしてアルバトロスのバッタもんの映画でも見た?」なんて認識のパラドックスが起きたような気分になる。

ほらよくいませんか?めっちゃいい奴って言われてもどうしても好きになれない人って。あれってどうしても個人の深層の中でどうしても許せない地雷みたいなものがあると思うんですよ。それがたまたま足を踏み入れて爆発しただけの話。いい人と思う反面たった一つの欠点がでかすぎて好きになれない。
そう鴨頭嘉人の動画とかインタビューをマジにありがたがってる奴なんかは僕のそれに当たるかな。あんな説教で始まって感動で終わらす論法って洗脳で良くあるやり方だし、ありがたがってその動画で得たちっぽけな知識を語る人を見ると「あぁ、もう考えることやめた人なんだ」って。多分、いいやつなんだけど『カッコーの巣の上で』の主人公と同じ。あんなの見るロボトミー手術だよ。これがワタクシの地雷なわけです。

話はだいぶそれてしまった。『リメンバーミー』って映画、見たことありますか?ディズニー映画で2020年の2月に金曜ロードショーでやってましたね。それで見た人も多いのではないかと思う。だからあえてあまりストーリーやあらすじは語らないでおく。詳しいネタバレはWIKIPEDEAでお願いします。
手元のスマホでこの『リメンバーミー』の評価を調べるとYahoo映画で5点満点中4.4点。映画の得点としてはかなり高い良作だ。

確かに映画としてはいいと思いますよ。映像もマリーゴールドのオレンジ色やラテン的な色彩できらびやかだし、メキシコの死者の日っていう日本でいうお盆見たいな死者を思う風習に焦点を当てるのもいい。メキシコ、というよりもラテン系のカトリック圏の家族を描いた作品で良くも悪くも「愛」に満ちた作品だ。

だけどこの良作、私は嫌いなわけである。一音楽をやっている、音楽を紹介している人間としてこの映画嫌い。
いい映像でいい映画なのはわかっているんだけど、残念ながら好きになれない。
なぜ苦手かを考えるとと問題は満ちた家族の「愛」だ。
とにかく主人公のミゲルくんがですね、なんというかなんにも悪くないんですよ。ただただミュージシャンに夢見る少年なワケなんですけど、その夢を彼の家族が邪魔をする。その邪魔をするのも家族という「愛」故だ。

この話の主人公の一族は総出で音楽を毛嫌いしている。
その理由はひいひいじいさんが家族を捨てて音楽の道へ行ったからっていう、V系ギタリストに孕まされ捨てられたバンギャのようなしょうもない理由。こんな一個人の感情を伝統的に毛嫌いしている。
いくら先代のばあさんが音楽のせいで捨てられたと言ってもひいひいじいさんじゃないですか。ミゲルくんからしたらいくらろくでなしの先祖と捨てられた先祖なんてあかの他人なわけじゃないですか。他人の痴情のもつれで子孫に対して「音楽をやめろ」なんてつらくないですか?ひどいくないですか?もし仮に先祖がカレーが辛すぎて嫌いになって代々カレーを極度に嫌う一族ってヤバいでしょ。

そんなの完全に呪いだ。この映画の冒頭でも「僕は呪われている」ってミゲルくんのナレーションから始まっているからその自覚はあるらしい。
なんの落ち度もないし別にグレているわけでもない。だけどこの「家族」っていうやつの呪いのせいで苦しんでるんですよミゲルくんは。
やりたいことは音楽なのに家族の中の誰一人理解してくれる大人はいない。その上で家族は彼に靴職人の道を強制しようとする。
色彩がきらびやかだからあまり暗い印象を持たないかもしれないけど、これを邦画にありがちな薄暗い色彩にしてみると随分と陰鬱な映画になると思いますよ。

音楽嫌いのキチガイ一家の中でも群を抜くキチガイなのがセレナっていうミゲルくんの祖母。
音楽がなったら窓を閉めるし、音楽を奏でるものは追い回す。自分の家族に押し付けるならまだしも完全に他人にまで自分の価値観を押し付けている。まるで引っ越しおばさん系のクレイジー異常者だ。

よく巷で「俺、サイコだから」とか「ちょっと変わっているところあるから」ってアピールする人っているけど異常者って自分のこと異常だと全く思わないんですよね。むしろ自分の見ている世界が正しい思っている。
だから難しんですよね正真正銘の異常者に自覚をさせるのって。彼らからしたら僕らの世界が異常に見えるからだ。沙耶の唄みたいな状態。
だから完全に家族に洗脳しきっているセレナからしたら音楽という音色が黒板を掻きむしったような音に聞こえているかもしれない。

話を戻すけどセレナばあさんはミゲルくんの手作りギターを叩き潰すんですよ。別に何も悪いことしていないのに。これがマジで許せんシーン。「こんなものがあるからいけないんだ」みたいな感じで。その後、叩き割ったことを謝ったらまだいいですよ。だけどこのババア、最後まで謝らないんですよ。これが大人ですか?
最後のシーン何事もなかったかのように一家団欒しているけどそれでいいのかミゲルくん、君が頑張って作った手作りのギターやぞ。ババアの圧政の中、隠れて頑張って練習してきたギターやで。それをなんの躊躇もなくぶっ壊すババアなんて許さんやろ普通。

そんな祖母の圧政の中でも周りの大人は誰も「やりすぎだ」って言わない。伝統の一点張りで思考停止状態。家族全員がミゲルくんを不幸にしているから同罪と言ってもいいだろうと思う。
もうね、子どもの夢を誰も応援しない時点でこのクソ家族とは縁を着るレベルだし、毒家族といって差し支えない。
父親も母親もギターを叩き割られるのを黙って見てるだけだし、なんだったらお前が悪いっていう扱いになっている。
だったらミゲルくんがお前らの靴職人道具をぶっ潰して「お前らが助けなかったからだ」って復讐されたらどうなるのか。そんな想像力のかけらもない。

ミゲルくんがひょんなことで行ってしまった死後の世界でも同じだ。もとの世界に戻るには先祖からの許しが必要なんだけど、先代の先祖たちは音楽をやめないと、許しは与えないという。ひどいよな、時間がすぎると自分たちの子孫が死者になってしまうっていうのにどいつもこいつも。お前らの個人的な思いなんて知ったこっちゃねぇだろ。
しかも終盤になっても「音楽をやめないと許しを与えない」っていうんだから頭がおかしい。自分の子孫が死者になるかどうかの瀬戸際だろ?そんなこと言ってる場合じゃないだろう。

この話に出てくる登場人物でマジに話通じるのが悪役のエルネスト・デラクルスだけってどういうことだよ。彼だけですよ、ちゃんとミゲルくんに音楽をやる喜びと将来を応援してくれたのって。
もし自分がミゲルくんなら祭壇に飾っている写真全部焼き尽くしてくれるよ。一族全員、死者の国から出られなくしてやるよ。それだけのことを仕出かしているんですよこの家族は。

この映画のキーワードである家族愛というものは確かに美しいし優しい言葉のように思える。「愛」なんてフレーズをつけるだけでもその言葉は優しくなる。
だけどそれは本当にそうだろうか?ピアニストになりたかったから娘にスパルタ的にピアノをやらせる、医者になってほしいからスパルタ的に勉強を強制する、一族代々受け継がれているからその道を強制する。
これら全ては「あなたを思って」って言って愛を語ってくる。正しい保護者像というべきか。
こんな一方通行な愛を受けている人にとってこの愛というものは幸福なことだろうか?多分、正しい保護者像からしたら「よかれと思って」て考えているかもしれないけどそれは違う。
ミゲルくんの場合、音楽をやりたいのに家族はよかれと思って無理やり靴職人の道を歩ませようとする。この時点で「よかれ」という気持ちとミゲルくんの夢である音楽の帰結は一致していない。これでは過干渉なわけだし、典型的な毒親だ。
また集団の中における異端排除の問題もある。だって音楽を毛嫌いする一族の中でたった一人だけ音楽を愛する少年ってあまりにも孤独な立場だ。マイノリティは決まって協調性のないものとみなされ集団は排除に動き出す。
ミゲルくんの一族は伝統的に音楽を共通敵としてみなしている。だからより家族の一体感が生まれるから音楽嫌いの協調性がさらに高くなる。

多分、セレナババアが暴力的手段を用いて音楽に対して攻撃するのってこの協調性の高すぎる人間性にあると思うんですよ。生まれてからずっと音楽を毛嫌いするように洗脳教育されてきたセレナババアは目の前にギターと音色が流れるだけで家族や自分の尊厳が傷つけられたと感じたから、その場において自分が損をしてでも攻撃を駆り立てたのではないかと思う。だからセレナババアってある意味、家族愛に見えて実は愛という名の呪いを直で受けたかわいそうな人でもあるかもしれない。
そう見たら少しこの映画の見方が変わる。ここまで歪んだババアができてしまったにはあの優しそうな曽祖母のココにも問題があったのかもしれないという説も考えられる。
ボケてきたから家族愛の角が取れていたけど、ボケる前の全盛期はセレナババア以上の暴君だったんじゃないかと。あくまで個人的推測になるんだけどね。
だって父親が消えて、母親は音楽を憎むようになってしまったし、娘にあたるセレナババアはあんなキチガイになってしまっているからね。これでなにもないはずがない。

まぁこの映画の家族観とか生活観ってカトリック圏の話だからこの極度な家族愛を理解できない部分ってかなり大きいかもしれないけど。

満ち過ぎた家族愛。それは家族を守ろうとするし、自分たちに反旗をひるがえすものに対しては攻撃だってする。これがこの映画の正体。

例えばミゲルくんの孫だかがその子孫が漫画家志望なのにそれに向かって「音楽のおかげで僕らの家族は救われたんだ。なんで君は漫画家を目指しているんだ。音楽をやりなさい」って洗脳する立場になったらどうだろうか?
それはセレナババアと同じになってしまう。子孫は漫画家になりたかったのに音楽を強制される。まるでピアニストになることを強制される人みたいだ。

だからこの映画において音楽って正直どうでもよかったんじゃないかと思う。じゃないとちゃんとミゲルくんの夢を理解してくれのが悪役だけっておかしいでしょ?少なくとも音楽をちゃんと描いているならギターを叩き割ったことや圧政をしていたことに対しての反省を描くはずなんですよね。

描きたかったのは先祖代々どこまでも繋がっている家族愛。ただそれだけじゃないかと。

別にミゲルくんが漫画家志望でも画家志望でも俳優志望でも。ココが父親を思い出すところなんて音楽じゃなくても漫画ならその絵を見せればいいし、俳優なら演技をすればいいだけなんだし。なんだって代替えがきく。

別に音楽に焦点を当てているように見えて全く音楽である必要のない映画。多分、これがギターを叩き割ったシーン以上にこの映画が嫌いな理由なわけです。

それでは。

田渕竜也のTwitter

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