第25回もう一度まなぶ日本近代史~五箇条の御誓文、これが新しい日本や~

文:なかむら ひろし

 久々に本編の更新でございます。今回から明治時代に入っていきます。しばらく近代化を目指す日本の改革について書いていくことになるので、少々退屈かもしれませんが、付いてきてくださいな。結構重要なんですよ。

こんな国を目指します!

 1868年(明治元年)1月、王政復古の大号令により、天皇を中心とした新政府が樹立したことを諸外国に通告し、承認を得ました。それまでの徳川幕府に代わって明治政府が外交を取り仕切りますよということを伝えておかないと、諸外国はどこに話を持っていけばいいのかわからなくなります。また、徳川幕府が結んだ条約もきちんと踏襲することも同時に伝えておかないといけません。「これまで結んだ条約は、徳川が勝手にやったことだからなかったことでお願いします」なんてことは国際社会では通用しません。某国は、こういうことを平気でやっちゃうわけなんですが・・・
 続いて同年3月14日には、京都御所の紫宸殿において、明治天皇が天地の神々に誓約する形式で五箇条の御誓文を発し、公家や諸侯などに新しい政治の方針を示しました。また、これは諸外国に対して、日本が近代化を目指し、文明国として認められるように頑張りますよというアピールでもありました。明治政府の第一の目的は、諸外国に文明国として認知され、江戸時代に結んだ不平等条約を改正することだったのです。

五箇条の御誓文

 それでは、明治政府の施政方針である五箇条の御誓文とはどのような内容だったのかを見ていきましょう。
 ちなみに正式名称は「御誓文」で、「五箇条の御誓文」は後年になってからの通称です。また、教科書では「五箇条の誓文」となっていることが多いと思いますが、「誓文」と呼んでいいのは明治天皇自身と皇室を敬う気がない人だけです。

一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ

 公議輿論の尊重などと説明される条文です。元々は列侯会議を開いて、あらゆることを皆で意見を出し合って決定しようという感じだったのですが、後に国会開設による国民の政治参加へと繋がっていきます。

一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ

 「経論」とは、経済の経という字が使われているように経済振興を指していたのですが、一般には政策全般を表しています。国民が一致団結して、より良い国を作っていきましょうという感じでしょうか。

一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス

 官武の「官」は中央政府、「武」とは地方の諸侯を指し、それらが一体となって、庶民までもが志を遂げることができるような政治を行うという感じです。

一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ

 旧習の打破、開国和親と説明される条文です。筆者は、「陋習(悪習)」とは攘夷を指し、「天地ノ公道」とは国際法を指しており、開国和親を表していると習いましたが、これはあくまでひとつの事例であり、本来はもっと広い意味で旧習の打破を訴えているそうです。

一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

 「皇基」とは、皇国の基礎という感じです。進んで外国の良いところを取り入れるという開国進取、そして天皇親政を強調する内容になっています。

 以上のように、御誓文は近代化を目指す明治政府の方針と共に、日本は天皇を中心とした国民国家であることを強調しています。国民国家という概念は、特に日本人には難しいこともあるので、今回はその説明は割愛させていただきます。

五榜の掲示

 五箇条の御誓文が公布された翌日、五榜の掲示が出されました。こちらは施政方針とかではなく、国民に向けて出された禁止令です。各地に5つの高札が掲げられました。一札から三札までは江戸時代の教学思想を踏襲しています。

一札、五倫道徳の遵守

 五倫とはオリンピックではなく、君臣・父子・長幼・夫婦・朋友を指します。例えば、子供は親を敬いなさいというような儒教の基本的な教えを表しています。他にも、殺人・放火・強盗の禁止なんかも書かれています。

二札、徒党・強訴・逃散の禁止

 大勢で団結して民衆運動を起こしてはいけないという内容です。それぞれをものすごく簡単に説明するとすれば、徒党は目的を持って集団を形勢すること、強訴はその集団で半ば実力行使で訴えること、逃散は集団でよその土地に移って訴えることです。
 一揆とは何が違うかというと、一揆は集団で立ち上がることを指し、どれも一揆に含まれると理解して良いと思います。ファミコンのソフトで『いっき』というものがありましたが、個人で代官所を襲撃するゲームなので、正確には一揆ではありません。ただ、逃散は年貢に苦しんだ農民個人が田畑を捨てて都市部に流入することも指すようになったこともあるので・・・どうでもいい話でしたね。

三札、切支丹・邪宗門の禁止

 主にキリスト教(カトリック)の禁止です。邪宗門は怪しい危険な宗教のことを指します。戦国時代、江戸時代初期のイメージからキリスト教だけは危険だという思想は残っていました。ただ、開国和親を謳い、文明国として認めてくれと言ってる相手はキリスト教国がほとんどです。当然、諸外国から批判されることになり、結局廃止することになります。

四札、万国公法履行

 万国公法とは国際法です。攘夷運動や外国人の殺傷を禁止しています。

五札、郷村脱走の禁止

 浮浪者になっちゃいけないよっていうことです。浮浪者が増えるということは、政府が管理できなくなりますし、治安も悪化します。

 この五榜の掲示は、情報伝達手段が発達してきたこともあり、1873年の高札制度の廃止に伴って廃止されています。先にも書きましたが、この後、政府によるキリスト教の禁止は行われていません。

政体書

 さらに同年閏4月には政体書が発せられました。これにより、太政官制を復活させると共に中央集権化を進めました。また、アメリカに大きな影響を受けて、三権分立を目指し、議政官(立法)・行政官(行政)・刑法官(司法)を置きました。さらに官職は、4年毎に互選により交代すること、藩代表議会などが決定されました。
 しかし、一気に近代化を進めるのには無理がありました。「立法と行政って何が違うの?行政官を兼任しても問題ないよね?」と言ったかどうかは知りませんが、結局何をやっているのかわからなくなり、有耶無耶になってしまったのです。官職の互選も1回しか行われませんでした。

東京遷都

 同年9月、政府は年号を明治に改め、一世一元の制を打ち立てました。天皇一代の間は一元号にするというもので、これによって現在の日本人は誰でも明治以降の天皇の名前を知っているという状態になったわけです。ちなみに改元までこの年は慶応4年だったのですが、1月まで遡り、そこから明治元年にしたため、慶応4年はなかったことになりました。
 また、7月に江戸から東京に改称されると、10月には明治天皇の東京行幸が行われ、翌年初めには東京遷都が行われました。この東京遷都は、旧習を捨て、日本が生まれ変わるという決意が含まれていました。
 このように始められた新政府による一連の改革は、当時「御一新」と呼ばれていました。それが後年になって、明治維新と呼ばれるようになり、現在も一般的に使われています。

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五箇条の御誓文、政体書の起草を行った福岡孝弟。
福岡なのに土佐出身とはこれいかに。
この後、薩長による藩閥政治が行われるようになり、キャプテンになれなかった土佐出身の福岡は一旦、下野します。
しかし、すぐに中央に復帰して、要職を歴任するなど、板垣とは一定の距離を置くようになります。
板垣と距離を置きたくなる理由は、しばらく後の話で理解できると思います。

 明治維新は、失敗を繰り返しながらも進んでいきます。次回は、廃藩置県をやりますが、藩が県になっただけなんて思ってませんよね?

なかむら ひろしのTwitter

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