第26回もう一度まなぶ日本近代史~廃藩置県、まずは中央集権化~
明治政府は、五箇条の御誓文で目指すべき日本の形を打ち出しました。その目標を達成するためには、挙国一致が大前提となります。全員で協力しないと列強に簡単にやられてしまいます。しかし、幕府は滅んだといっても、江戸時代から続く幕藩体制の名残は色濃いものでした。
版籍奉還
明治政府は、戊辰戦争で奪った旧幕府領のうち、重要な土地を「府」、それ以外を「県」としました。そして、諸藩はそのまま残し、府藩県三治制をとりました。藩というのは、藩主(大名)が土地とその領民を支配しています。これでは、諸藩が好き勝手に動いてしまい、中央集権を進めることができません。そこで明治政府は、大きな改革を断行していくことになります。
最初に行ったのが版籍奉還でした。諸藩主に版図(領地)と戸籍(領民)を天皇に奉還するというものです。大久保利通と木戸孝允が中心になって、この計画が進められ、1869年(明治2年)1月に薩摩、長州、土佐、肥前の4藩がまず版籍奉還を申し出ます。そして、「俺たちもやったんだから、お前らもやれよ」ということで、同年6月、諸藩にもこれを命じます。さらに旧藩主を知藩事に任じて、石高の10分の1を家禄として支給し、これまでどおり藩政に当たらせました。これによって、旧藩主は明治政府の役人になったということになります。
廃藩置県
版籍奉還によって、形の上では中央集権化が進んだことになるわけですが、実質的にはほとんど効果はありませんでした。何が変わったかというと、名前が変わっただけというレベルですから当然です。しかも、各藩が対立し始めたり、明治政府内でも派閥闘争が起こるなど、穏やかではありません。そこで「こうなったら実力行使だ!」と、大久保らは密かに動き出します。
まず、薩長土の3藩で1万の兵を集め、御親兵をつくります。「反対してもいいけど、我々と戦って勝てると思います?」という風に軍事的圧力を加えるためです。そして、1871年(明治4年)7月14日に廃藩置県の詔を出します。藩を廃止し、すべて県に改めると同時に、知藩事をすべて罷免し、東京に強制移住させたのです。(東京への強制移住の意味は、国許から引き離して監視下に置くことで反乱を防ぐという独裁政権の常套手段です)各県には明治政府から新たに役人が送り込まれ、県知事に任命されました。こうして、半ば強引に中央集権化が進められていったのです。県知事は県令に名前が変わったと思ったら戻ったり、最初300以上あった府県の分離や統合を繰り返したり、ゴチャゴチャしたわけですが、失敗を繰り返しながらもなんとか形になっていきました。
無茶したけど血が流れなかったのは?
こんな強引な方法で改革が進められたのにも関わらず、諸藩から大した抵抗も受けずに済んだのには理由がありました。まず、諸藩の財政状況が最悪だったからです。戊辰戦争を戦う中で、多くの藩は借金だらけで明治政府と戦うお金がなかったのです。中には藩政を維持することもできないような状態というところもあったようです。すべての藩の借金を合わせると、当時の国家予算の2倍以上になったそうです。
もうひとつの理由は、諸藩の間にも列強に負けない国家を作り上げるには中央集権化が必要だと理解していたこともあります。特に福井では、廃藩置県の詔が出たときに、「これで欧米列強の仲間入りができるぞ!」と喜んだという話もあります。
官制改革
版籍奉還や廃藩置県が行われるのと同時に、中央官制の改革も行われていました。版籍奉還の直後に、政体書による太政官制は、大宝律令時代の官制にならい、太政官と神祇官の二官が置かれ、太政官の下に6つの省が置かれる二官六省制に改められました。
続いて廃藩置県が行われると、再び官制改革も行われています。太政官は正院・左院・右院の三院制となり、神祇官は神祇省となり、太政官の下に置かれました。正院は政治の最高機関(今でいう内閣のようなもの)として、太政大臣・左右大臣・参議が置かれ、左院は立法諮問機関、右院は各省の長官(卿)・次官(大輔)が集められ協議する連絡機関とされました。
何を言ってるのかさっぱりわからないという方もいらっしゃると思いますが、とにかく政治を行いやすいように政治機構が変化していったということです。重要なのは、ここからです。三条実美、岩倉具視を除く公家出身者は勢力を失い、薩長を中心とした下級武士出身者が参議を占め、実権を握るようになったということです。簡単に言うと、身分ばかり高くて、実力がない連中は排除されたということです。これが後に藩閥政治として批判されることになるわけですが、少なくともこの時は仕方のないことだったのです。
徴兵令
列強に侵略されないようにするためには、何よりも強い軍事力が必要です。そして、列強にならい、それまでの武士を中心とした軍隊から、国民皆兵を目指すべく徴兵制が実施されることになります。これは大村益次郎によって立案されたのですが、彼が暗殺された後は山県有朋が引き継ぎ、完成させました。
まず、廃藩置県により藩兵を解散させ、兵力を兵部省に集めると、4個鎮台を設け、後に6個鎮台、師団と発展します。鎮台とは、ある地域を守るための軍隊で、反乱や一揆の鎮圧に当たりました。師団は、鎮台よりも規模が大きく、作戦司令部が置かれ、ある程度裁量が認められています。どちらも軍の編成に関する用語です。また、御親兵は近衛兵と改められ、天皇の警護に当たりました。
そして、1872年(明治5年)に徴兵告諭が出されます。これから公布する徴兵令の意図などを国民に説明したと考えてください。この徴兵告諭の中に「血税」という言葉が出てきたため、一部の人々が血を抜かれるのではないかと誤解し、血税一揆と呼ばれる反対暴動が起こったりしました。しかし、翌年の1873年(明治6年)には徴兵令が公布されます。身分に関係なく、満20歳の男子からランダムに選び、兵役に服させました。ただ、戸主や長男、官吏や学生、さらに代人料270円(当時としては大金です)を払えば免除など、免役規定も多く、養子縁組が頻発するなど兵役逃れをする者が多かったため、国民皆兵には程遠い状態でした。そのため、3度にわたる改正が行われています。
徴兵令で重要なことは、強い軍事力を持つこともそうですが、国家は国民全体で守るという意識を持つことです。国民国家を形成する上で必要だったのです。例えば、北海道がロシアに侵略されたと聞いて、「自分は北海道民じゃないから関係ない」なんて言う日本人はいないと思います。これが国民国家であるということです。
権力の塊?内務省
1873年、徴兵令が公布された後に内務省が設置されます。廃藩置県後に民政、地方行政などを司っていた民部省を廃止し、大蔵省に統合されたのですが、外交や法務といった特殊なもの以外は大蔵省に集約されていたため、権力も集中してしまっていました。やってる方も範囲が広すぎて大変です。そのため、大蔵省から再び分離されてできたのが内務省です。
この内務省ですが、それでも範囲が広すぎました。現在で言うと、厚生労働省も経済産業省も国土交通省もすべてひとつの省が担当するようなものです。さらに内務省は警察も司っていました。この時にできたのが警視庁です。初代大警視(警視総督)に任命されたのが川路利良です。禁門の変で来島又兵衛を狙撃した人です。
このように内務省は、権力の塊といわれていたわけですが、大蔵省の権力もかなりのものでした。現在でも財務省が強いのと同じです。財布の紐を握っている人は強いのです。小遣い制のサラリーマンが奥さんに頭が上がらないのと同じ(?)です。他の省庁がいくら政策を打ち出しても大蔵省が予算をつけなかったら何もできないですからね。
廃藩置県で中央集権を強化した大久保利通たち。
しかし、薩摩の重鎮である島津久光は最後まで抵抗していました。
大久保や西郷は、この人を抑えるのにかなり苦労させられたそうです。
こう言うと島津久光が無能な奴だと思われそうですが、決してそんなことはないと、一応弁護しておきます。
次回は、身分制度や地租改正についてやっていきます。強い国家を形成するにはまずお金が必要なんです。