第27もう一度まなぶ日本近代史~地租改正、改革にはお金がいるんや~

文:なかむら ひろし

 明治政府は、廃藩置県により挙国一致で近代国家を目指すべく、中央集権化を進めていきました。しかし、様々な改革を進めていくにはお金が必要です。お金がないのに列強に負けない強い軍事力を持つなど無理な話です。

四民平等

 明治政府が中央集権化を進める中で、江戸時代から続く封建的な制度を廃止していきました。版籍奉還によって、藩主と藩士の主従関係がなくなったので、この機会に身分制度も改めてしまおうというわけです。これにより、公家・大名は華族、武士は士族、それ以外の人々は平民とされました。それまで被差別民とされていたえた・非人も解放令により、平民とされています。しかし、いくら政府が「差別は良くない!」と言ったところで、差別意識がなくなることはなく、部落問題という形で残っていくことになります。また、足軽などの下級武士は当初、卒族とされましたが、すぐに廃止され、士族や平民に編入されています。
 1872年(明治4年)、日本初の近代的戸籍と言われる壬申戸籍が作られました。これに先ほどの新しい身分が記載され、新しい身分制度が出来上がりました。この新しい身分制度では、平民も苗字を名乗ることができるようになり、華族と平民など身分を越えての結婚、職業選択や移転・居住の自由も認められ、所謂四民平等の世の中になったのです。

秩禄処分

 そうはいっても、いきなりすべてを平等にするわけにはいきませんでした。上流階級である華族、江戸時代の士農工商の頂点であった士族の特権をすべて剥奪するのは、反発もあって難しかったのです。特に華族に関しては、戦後まで特権が認められることになります。
 中でも華族、士族に支給されていた秩禄が問題でした。江戸時代、武士は家禄という給料を貰っていました。これは維新後も続いており、さらに王政復古に貢献した者は賞典禄という特別ボーナスを貰っていました。この家禄、賞典禄を合わせて秩禄というのですが、版籍奉還後に減額はされたものの、これが国家財政の30%を占めるようになり、これを廃止する秩禄処分に踏み出すことになるのです。
 まず、1873年(明治6年)に秩禄奉還の法を定めます。これは、秩禄はいずれ廃止するので、秩禄を奉還してくれたら秩禄数年分の現金または公債を与えますよというものです。次に1875年(明治8年)には、それまで米で支給していた秩禄を現金で支給するようになります。しかし、思ったような効果が得られず、ついに1876年(明治9年)に金禄公債条例を制定します。秩禄の権利と金禄公債証書を強制的に交換させたのです。これによって、家禄制度は廃止されました。
 華族や裕福な士族は別にしても、政府は財政難ですから、一度に公債を現金にすることができなかったこともあり、多くの士族は生活に困窮するようになります。一部の士族は公務員として雇われましたが、農業を始めたり、公債を売却して商売を始める者が多くいました。しかし、それまで特権階級にいた人に客商売などできず、所謂「武士の商法」と呼ばれるように失敗する者がほとんどでした。
 さらに1876年(明治9年)に廃刀令が出されると、武士の命といわれる刀まで取り上げられ、士族反乱や自由民権運動につながっていきます。これに対して政府は、北海道開拓などの仕事を斡旋するなど士族授産に務めるようになります。ただ、この仕事は厳しいものばかりでした。

地租改正

 秩禄処分によって支出は減ったといっても、安定した歳入が得られなければ、どうしようもありません。そもそも、そうするための改革にもお金が必要になってくるので、政府は太政官札という不換紙幣(金と交換できない政府の信用によって成り立つ紙幣)を発行します。しかし、出来たばかりのいつ倒れるかわからない政府が発行した紙幣など誰も信用なんてしてくれないので、当然失敗に終わります。結局、豪商からお金を借りて改革を行うことになります。
 廃藩置県によって、政府は租税徴収権を藩主から剥奪したのですが、江戸時代では地域ごとに税率が異なっていたり、ほとんどが価格の変動が激しい米で納めることになっていたため、安定した歳入は望めませんでした。そこで近代的土地制度、租税制度が必要となりました。
 まず、経済の発展を妨げるような規制を緩和していきます。株仲間の解体、関所の廃止、田畑勝手作りの許可、職業選択の自由などです。さらに1872年(明治5年)、田畑永代売買の禁を解き、土地の売買を自由に行うことができるようにしました。さらに地価を定め、土地所有者にはその証明として所在地や面積、価格などが記された地券を交付しました。こうして、土地の私有制度を確立します。こうして地盤を固めた後、1873年(明治6年)に地租改正条例が出されたのです。

 この地租改正は、農民にとって大きな負担となりました。具体的な中身を見ていくことにしましょう。

1.納税方法が物納から金納へ

 江戸時代は米で税を納めていましたが、これからは米を現金に換えて納めるようになりました。これによって、政府の歳入は米価に左右されずに
済むわけです。逆に農民は、米価が上がると負担が軽くなりますが、下がると負担が重くなります。

2.課税標準が収穫高から地価の3%へ

 江戸時代は、この土地はこれくらい収穫できるだろうというところから税が定められていましたが、これからは政府が定めた地価の3%の税を納めなければならなくなりました。政府としては、常に地価の3%の税が入ってくるので安定した税収が見込めます。

3.凶作による減税はしない

 江戸時代には、凶作による減税を行っていたところもあったのですが、これからはそんなことは認めません。これも安定した税収が見込めます。

4.納税義務は地券を持つ土地所有者

 土地所有者以外に地租を納める義務はありません。これにより、地租に苦しんで土地を手放すなんていうことが頻発し、土地が富裕層に集中していくことになりました。これが近代資本主義の始まりといわれています。

 この地租改正には問題があって、政府が地価算出ための収穫高や米価を実際よりも高く設定したため、農民にとっては大きな負担となったのです。農民はこれに不満を持ち、1876年(明治9年)に和歌山、茨城、岐阜などで地租改正反対一揆が起こり、特に三重の伊勢暴動など、軍隊による鎮圧が行われるまで発展したものもありました。さらに先ほどの不平士族の反乱も起こるようになり、翌年には地租率は2.5%に引き下げられることになりました。この頃、米価が高騰していたこともあり、農民の負担はかなり軽くなったのですが、この後、対外戦争が始まると地租率はまた上がっていくことになります。

 いろいろありましたが、この地租改正によって、政府は安定した財源を手に入れました。また、農民の単一の土地所有権が認められ、近代土地所有制度が確立し、地租が金納になったことで市場経済が発展することになりました。その一方、重税に耐えかねて土地を手放す者も増え、土地が富裕層に集中し、小作人が搾取されるという資本主義の負の側面も見られるようになっていきました。

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大蔵大輔として権威を振るいまくった井上馨。
鹿鳴館外交で外務のイメージが強いという方も多いと思いますが、実はこっちが本職。
財界と太いパイプを持っており、何かとスキャンダルの絶えない銭ゲバ。
優秀だったのですが、失敗ばかりが目立ち、財界以外に強い基盤がなく、何度も首相を務めた同じ長州の伊藤博文や山県有朋に比べると地味なのが切ないところです。

 明治政府のスローガン「富国強兵」、そのためにはまず富国にならなければなりません。富国になるには、近代産業の発展が不可欠です。次回は、殖産興業をやっていきます。

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