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kamome kamomeの歌詞と解釈と衝動と

文:田渕竜也


14歳っていう年齢は自分の中の世界観の構築がほぼ決定づけられる。

ちょうど中学二年生。生まれて間も無く幼稚園なんかで社会を刷り込まれた「子どもだった頃の常識」例えば大人や先生、親が常識という刷り込みがそろそろ崩壊し出す頃である。
その頃ってたかだかこのセカイに生まれて14年しか経ってないのに世の中のことをシニカルに捉えて自分を特別な存在だと思い込むような時期である。まぁこの感覚が後に思春期の傷跡として黒歴史や厨二につながっていくわけなんだけどね。

だけどいくら世の中をシニカルに捉えようが大人が教え込む道筋はすなわち効率よく国に税金が入る人間をつくりだすことであって、10代前半という監獄的空間は国という集合体が効率よく運営できるようにする人材を育成するためなのである。

そんな大人たちが教え込む教えをシニカルに捉えて幾ばくのない感情で反発しだすのがこの年頃。
だから自分で好みを探し出すそういった自我が芽生えてくる時期なんじゃないかなと思う。

まぁこの芽生えた自我が当たり障りのない音楽や漫画、文学にある種の気持ち悪さを見出した結果がサブカルデスロードの幕開けになったりするわけなんだけど、そういった世の常を疑って、自分の世界を構築していくのが14歳という特異な年齢じゃないかなって思う。

だから今の14歳ってなにを考えて生きているのかが純粋に気になるのである。

だって僕が14歳の頃ってまだ、ケータイも目に見える人の範囲でしかやり取りができなかったんですよ。
誰かに連絡先を教えてもらって、連絡したり、情報も誰か顔を知っている人から教えてもらう。
だから「みんな」というものが見えていたんですよ。

だけど今は違う。全く接点のない世界中の人たちと繋がったりして、自分の動画で見たことない人を笑わせたりして、なんか全く僕の過ごした世界線とは異なっている。
「みんな」という言葉には顔も知らないしどんな人かも知らない。今は全くの透明人間が情報を流しているのだ。

だから今の14歳がどういった反発をしているのかがきになるのである。僕の知っている14歳というセカイではもうなくなっているから。

ちょうど僕が14歳の頃って、Linkin parkとかSlipknotなんかがメインストリームに上がってきて重い、激しい音楽に共鳴していた時期でもあった。

そんでその流れでヌンチャクっていうハードコアバンドを知ってすごく好きになったわけなんだけど、知った頃にはもうすでに解散していた。
解散の理由は「飽きたから」だそうだ。そりゃ何年もバンドやってりゃ飽きますよね。音楽性の違いとか人間関係がバンドの解散理由の常ではあるけど彼らは実にハードコアらしい。

都部ふぶく

ツインボーカルでバッチバチにスラップしたベースとざっくざくのギターリフという一風変わったハードコアスタイルは後のマキシマムザホルモンとかその辺りのバンドに多大な影響を与えている。

解散の後、ベースの人はIT企業を経営者として活躍しているそうだ。

今回はこのツインボーカルの片割れである向達郎のバンドkamome kamomeに焦点を当てたいと思う所存であります。

普段、ハードコアとかその辺を聞いていると言葉やメロディーよりもスピード、激しさについ目を向けがちである。

まぁ十代の頃ってそうじゃないですか?どれだけ過激でどんだけ刺激的かってのを重視するわけで、だから十代のころって過剰に流血のある漫画とか映画に趣きに走るわけなんだと思うんですよ。

多分、そういうやってメインストリームから逃れようとした過去を持っている人は殺し屋1とかワールドイズマインなんか読んでいたと思います。

ヌンチャクはそんな激しい音楽性とキワドイ下ネタ歌詞や身近な世界をテーマにしたり結構ギャングなことに選定していた。
けど、まぁ歳を食ってくると趣きが変わるじゃないですか?急に誰かが暴力を受けている映像を受け付けなくなったり、自分より年下の人が死ぬニュースが見れなくなちゃったりして。

Kamome kamomeではヌンチャクのときのようなハードなテーマではなく向達郎のパーソナル的な内面的なものに選定している。それでいて随分と哲学的で音楽性も複雑怪奇な異質な音楽となっている。

事切れ手鞠歌

そもそも、共感されやすい歌詞の世界観って大体恋愛のこととか人生哲学はたまた不幸の見世物など3つに別れる。

まぁ売れるのは恋愛の歌詞なわけですよね。
結局は人混みに流されて愛してるって叫ぶ以上なにもないような音楽が当たり前だけど毒にも薬にもならないわけで主張性が低いからこそ万人に受け入れられる。
これと表裏一体的なのが不幸の見世物だ。これも過激なようで実は誰でも共感はできるし、そもそも不幸を背負っていない人間なんてほぼほぼいないわけである種、誰も傷つけず共感を得られる。

まぁそれはそれでいいんですよ。今流行っている香水だって好きではないにしろいい曲だとは思いますよ。ネットで叩かれている以上にあの曲パワーはすごいですよ。正直言って。
それにメンヘラ狙い撃ちみたいな人たちもまぁいいですよ。

だけど、向達郎の徹底した内世界を外から眺めた内容の楽曲を根底としているバンドって珍しいと思うのである。

雨が強く打つ窓辺に売り物の不幸を並べた
雨宿りをする人にも見える様に並べたんだ
お客は来る事は来たが 露骨な嫌な顔曝した
そりゃそうさご覧の通り 値札に「幸せ」と書いた

上の事切れ手鞠歌の歌詞の一節だけど、これほど不幸という商売をうまく表している一節はないと思う。

だってみんな不幸な情報が好きなわけじゃないですか。ニュースとか見てもやっぱり誰かが結婚よりも不倫の話のほうが好きなわけだし。

例えば誰かが自殺したとか誰かがいじめられたなんて話を見てみんな悲しそうな顔はするけどそれはいっときの共鳴でしかないわけで、自分の幸せを引き換えに誰かの不幸を買おうなんて思う人は誰一人もいない。

救いのないセカイだけどこれがやっぱり人間なわけで、それは別に特別なことなんかじゃない。みんなそうだ。例えいじめられている人であっても多分同じことだ。何か不幸なものをみるといっときの共鳴で悲しい振りをするのである。

向達郎がこういった「同情をするなら金をくれ」というテーマを読み手に解釈させる詩的な音楽は間違いなく音楽界では稀有な才能である。

多分、歌詞の読解って年齢によって解釈が変わってくると思うんですよ。

小説だってそうじゃないですか?あの頃読んでいた本をいま読むと全く見えるセカイが違って見える。
それは社会との交わりで世界の構築が変わってくるからだろうからだと思う。

サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』も中学時代に課題図書で読んだときは「なんだこの偏屈な主人公は」って思ったけど、ある程度、年齢を重ねてから読んだら「これって嫌だった青春も思い返せば笑えるなって話じゃね?」ってなった。

多分、kamome kamomeの曲をこうやって解釈しているのも自分の年齢がそれなりに経っているからかもしれないし、また年齢を重ねれば解釈が変わってくるかもしれない。

なら自分が14歳の頃ならどう考えるか?それはもうわからないけどね。

それと同時に今の14歳なら不幸という商品の値札を幸せというものをどう解釈するのかが気になる。

まぁこれ以上、ボク自身の価値観だけで話を進めるのも考え方の押し付けになるかもしれないので、後は各々で考えてみるのもいいかもしれませんね。

ここで言えることはとにかくKamome kamomeはめちゃくちゃかっこいい。それだけです。

それでは。

田渕竜也のTwitter

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