第28回もう一度まなぶ日本近代史~殖産興業、富国でなければ強兵なんて無理~

文:なかむら ひろし

 明治政府は、まず廃藩置県ですべての国民を管理下に置くことで徴税権を獲得しました。次に地租改正により実際に徴税を行っていきました。ただ、それだけでは欧米に負けない国家にはなれません。まずは経済の発展が重要ということで、近代産業の育成を行っていくのです。これを殖産興業と呼びます。

バラバラな貨幣を統一せよ

 明治初期は、それまで使われてきた小判などの鋳貨、各藩が勝手に刷った藩札、外国貨幣、さらに明治政府が刷った太政官札・民部省札(ちなみに太政官札が高額紙幣で、民部省札が小額紙幣です)など様々な通貨が流通していました。現在でいうと、円やドルやユーロや人民元や古銭まで買い物で使われているというような状態です。まぁ、訳がわからなくなりますよね。さらにまだまだ信用のない政府の発行する政府紙幣は額面よりも低い価値しかなく、偽造貨幣も多く流通するなどメチャクチャで、当然諸外国からのクレームも相次ぎます。そこで、これらを整理するために1871年(明治4年)に伊藤博文によって新貨条例が公布されます。新貨条例の内容について簡単にまとめると以下のようになります。

1.金・銀・銅の新貨幣を造幣寮(後に造幣局)で鋳造

 貨幣の統一や偽造貨幣の防止のために行われました。また、四角い硬貨は使っていくうちに角が磨り減ってくることから丸い硬貨が造られました。

2.円・銭・厘の十進法を採用

 それまでは、一朱金4枚で一分金、一分金4枚で一両というような四進法が用いられていましたが、欧米は十進法を採用しており、わかりにくいとクレームが入り、日本でも十進法が採用されました。それに伴って、新しい単位も生まれました。

3.金本位制を制定

 金本位制というのは、普遍的な価値を持つ金を媒介として貨幣の価値を保障するものです。つまり、金そのものを金貨に鋳造し、貨幣として使うというわけです。また、紙幣を発行する際は保有する金と同じ価値までしか発行することができず、その紙幣は同じ価値の金と交換する(紙幣で金を買うわけではない)ことができます。このような紙幣を兌換紙幣と呼びます。
 ただ、江戸時代から大量の金が外国に流出していたことや貿易では未だ銀の使用が主流であったことから、実質的には金銀複本位制、後に銀本位制となりました。(貿易銀という銀貨が鋳造されています)実際に金本位制が確立するのは日清戦争後になります。

 また、翌年にはドイツで印刷した新たな政府紙幣、明治通宝札を発行しました。太政官札も偽造されるようになったこともあって、偽造の難しい精巧な紙幣と引き換えようとしたのです。結局、貿易では価値が担保された銀貨、国内では大量に出回った政府紙幣が使われました。

国立といいながら実は民間

 金本位制を確立するには、金と交換できる兌換紙幣の発行が必要になります。協定関税制でただでさえ不利なのに、輸入超過で金銀の流出が深刻なので、貿易で使用できるという意味で兌換紙幣は重要だったのです。しかし、お金のなかった明治政府は不換紙幣を濫発させてしまったため、その整理をしなければなりません。そこで1872年(明治5年)に渋沢栄一らがアメリカのナショナルバンク制度にならって、国立銀行条例を公布します。そして、第一国立銀行、第二国立銀行、第四国立銀行、第五国立銀行が設立されます。(第三国立銀行は直前に話がまとまらず設立されませんでした)これらは国立といいながら民間の銀行です。当時の政府にはお金がなかったので、財閥に「通貨発行権を認めるから銀行をつくってください」とお願いしたのです。ちなみに第一国立銀行は、現在でもみずほ銀行として残っています。
 国立銀行は、資本金の60%を太政官札で納入するかわりに同額の銀行紙幣を発行することができます。また、残りの40%は兌換するために金銀などの正貨で保有しておかなければなりませんでした。この条件が厳しく、多くの国立銀行は立ち行かなくなり、条例が改正されることになります。この改正によって、正貨兌換は中止され、資本金の80%まで銀行紙幣を発行することができるようになりました。これによって最初は4つしかなかった国立銀行は第百五十三国立銀行まで増え、三井銀行などの普通銀行も設立されていきました。これによって、兌換紙幣へ切り替えるはずがますます不換紙幣が市場に溢れ、インフレを招きました。
 「当初の目的と真逆の方向に進んどるやないかい!」とツッコミを入れられそうですが、殖産興業を進めない限りジリ貧ということで、積極財政を選択せざるを得なかったのです。お金を貸す人がいないと、とんでもない金持ちでもない限り民間では誰も設備投資を行うことができないですからね。結局、兌換紙幣が流通することになるのは、日本銀行が設立されるもう少し後の話になります。

殖産興業

 近代産業の育成、殖産興業が富国への必要条件なのですが、日本ではこれまで誰もやったことがありません。ノウハウもないのにいきなり民間に任せることはできないので、まずは国がやってみる必要がありました。そこで、官営模範工場を設立することになります。幕府や諸藩の持っていた鉱山や工場を引き継いで官営事業にし、欧米から機械を輸入し、所謂「お雇い外国人」を招聘して新たな工場も設立しました。この殖産興業を推進したのが工部省と内務省です。工部卿伊藤博文、内務卿大久保利通、さらに国家財政を掌握する大蔵卿大隈重信がその中心人物です。
 新たに設立した工場の中で有名なのが、世界遺産登録もされた富岡製糸場です。製糸業は日本の輸出部門の要でしたからフランスから機械を輸入し、フランス人技師ブリュナに指導させました。この工場には士族の子女が大量に投入された(所謂女工ってやつです)わけですが、規律が厳しかったり、機械の騒音に耐えられなかったりで逃げ出しちゃう人が結構いました。そのため、想定していたより生糸が生産できなかったり、フランス人技師に高額な給与を支払っていたことなどで操業当初は赤字続きでした。いつの時代も国がやるとこうなってしまうものです。後に女工が技術を習得しフランス人技師が去り、民間に払い下げられてからはきちんと黒字を出すまともな工場になりました。また、女工たちは民間で設立された製糸工場で技術指導をする役割が与えられました。ちなみに富岡の女工たちは『女工哀歌』のような劣悪な環境で働かされていたわけではなく、週休二日制で一般よりも高額な給与を受け取っており、かなり待遇は良かったそうです。

通信や交通も重要

 近代国家には通信・交通制度が不可欠です。通信は、まず1869年(明治2年)に東京・横浜間に電信が敷設され、5年後には長崎・青森まで開通し、1880年代初めにはほぼ全国の通信ネットワークが完成しました。また、長崎と清の上海との間に海底電線も開通しました。さらにアメリカから電話も輸入され、ちょっと時間はかかったものの、1890年(明治23年)には官営の電話事業が開始されました。郵便制度は、前島密の尽力により、これまでの飛脚制度に替わって導入されることになります。1871年(明治4年)に東京・京都・大阪で実施され、1873年(明治6年)には全国に広がり、全国均一料金制度も完成しました。そして、1877年(明治10年)には万国郵便連合に加入しています。
 交通の方は、1872年(明治5年)に新橋・横浜間に鉄道が開通しました。当時、政府にはお金がなかったのでイギリスから大量の借金をして鉄道を敷設しています。1日がかりだった横浜から東京への移動が鉄道を利用すると1時間で済むようになり、駅の周辺も発展したため、借金に見合うだけの効果は得られました。その後も鉄道事業は進み、1889年(明治22年)には東京から神戸までつながりました。
 海運業は、土佐藩出身の岩崎弥太郎が土佐藩の事業を引き継ぎ、九十九商会(後に郵便汽船三菱会社)を創設します。三菱は政府から無償で官船を払い下げてもらうなど特権的な保護を受け、国内だけでなく外国航路の開設にも着手し、欧米資本の海運業と競争し、それに打ち勝ちます。1885年(明治18年)には、半官半民の共同運営会社と合併して日本郵船会社となります。このように政府と特権的に結び付いた企業は政商と呼ばれます。

北海道も日本なんや

 1869年(明治2年)、蝦夷地は北海道と改称され、開拓使が置かれます。北海道の広大な土地を農牧に利用しようと考えたのです。ここではアメリカのケプロンやクラークが招かれ、開拓が進められました。1874年(明治7年)には、士族授産のひとつとして屯田兵制度を設け、屯田兵に農地開拓と警備に当たらせました。また、1876年(明治9年)には札幌農学校が開校されました。これはクラーク博士で有名ですね。

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郵便制度の実現に尽力した前島密。
現在も1円切手に肖像が使用されています。
「郵便」「切手」「葉書」という言葉を考えたのもこの人だそうです。
ちなみに大久保利通は当初、大阪を首都にしようとしていたのですが、この人が東京の方がいいだろと反対し、それが実現してしまったことから一部の大阪人には嫌われているとかいないとか。

 明治政府による改革は、教育・文化・国民生活などにも大きな影響を与えました。次回は、文明開化をお送りします。

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