「自由ってなんだ?」ドキュメンタルにおける松本人志の笑いの痛み
松本人志の笑いの約9割は痛みを伴うユーモアだ。
まぁお笑いというもの自体、ピエロという職業が人に笑われるようにバカにされてこそなんだけど、ダウンタウンがブレイクした90年代以降は芸人への痛みはなんとも容赦が無い。
なんたって風俗や性病、女遊びを余すことなく話したり、ごっつええ感じでは『なんなんなあに何太郎君』で血まみれになってしまうのだからブラックユーモアを飛び抜けて表現しているのが「痛み」である。
それにしても芸人と素人と分けだしたのはいつ頃だろうか?
おそらく松本人志の登場以降だと思う。彼の著書である『遺書』やトーク番組『松紳』でも素人が面白いことをやろうとすることに対して苦言をよく話していた。
確かに自分が面白いと勘違いしている人に鬱陶しさを感じるのは同意する。
ちびまる子のキャラの中でいえば関口。多分、池で溺れていたら笑いながら顔蹴り上げられるぐらいあの手の面白いと勘違いしている奴って僕個人も嫌いだ。
だけど考えてみればここでお笑い芸人にプロとアマで線を引くことが重要なのか問題が発生する。
「面白いと思うことをやってウケる」それは別に芸人を自称するものじゃなくても誰でもできるはずである。
そもそも芸人の素人とプロは何が違うのか?
明確には答えはないけど、だいたい察するところ何かしらの芸能事務所に所属していれば、まぁプロなのだろうと思う。
だって別に資格がいる職業でもなんでもなく、カタギではない仕事だからだ。要はヤクザもの。
ヤクザはどこからが線引きかといえば事務所に所属することだ。ヤクザ組織に所属していなかったらそいつはただのチンピラであってヤクザではない。そんでヤクザ事務所に所属してプロとしてブレイクするかはそいつの個人によるチカラや才能による。
だから今現在、芸人におけるプロとアマの線引きは「事務所に所属」しているかである。その個人が面白いか面白くないかは別の話。だからお笑いといえば吉本というイメージがあるから吉本のお笑い勢力が強いわけである。
この点で考えれば松本人志の素人とプロの線引きはただ単に自分が見えない世界の人に対して壁を作っているだけだったんじゃないかと。「素人は間がダメだ」とか「ボケのタイミングが」とか「オチが見えない」なんて言ってるけどそれができているプロの芸人なんて本当に一握りだし、芸人というより個人の才能次第のところだろうと思う。
もちろん、面白い芸人の喋りやお笑いのテクニックやロジックはちゃんとあると思いますよ。でもこれはその個人の話になるので、それとプロとでは別の話だ。プロでもダメなやつはたくさんいる。
早弾きがめっちゃできるギタリストでもつまらん曲作る人が多いっていうのもあるし、今、偉そうにしている長嶋一茂にしてもプロ野球にいたけど全くダメだった。だからプロにも向いてないやつはたくさんいるんですよ。
要はすごいとプロであることは別っていう話。
で、痛みの話
ドキュメンタルを見ていて思ったんですけど、これが芸人のチカラっていうならもうアマチュアと同じじゃないか問題になるんですよ。
ちょっと僕の話になるんですけど昔、ニューヨークで見たお笑い番組があったんですよ。その番組のコントが社交ダンスパーティのシチュエーションで男女が交じり合っていたら駅弁ファックになっていくっていうコントだった。もうただの下ネタですよ。しかもそれについて誰も突っ込まないんですよ。笑うだけ。
その時、明石家さんまが欧米のコメディが下品だから嫌いって言っていたことを思い出した。
そう、西洋のお笑いってツッコミがいないんですよ。
それとそもそも西洋のお笑いと東洋のお笑いは違う。
西洋のお笑いにはツッコミがいない。むしろボケに同調するもしくはバカにして笑うというのが西洋のお笑いの根本だ。例えば、オースティンパワーズを思い返してほしい。あれなんかはマイクマイヤーズがキャラボケ連発するだけして誰もそのキャラについて突っ込まない。むしろみんな同調してボケに対してボケを重ねる。
逆に東洋のお笑いは「何やってんだい」とバシッとツッコム。それは周星馳の映画ではよく出てくるし、東洋コメディの真骨頂だと思う。
今回、考えているドキュメンタルの僕個人の苦手な部分がその下品な痛みの部分が松本人志のいうところの「芸人のプロ」として表現、またはユーモアの部分の大半が下ネタである点なんですよ。
それでいて、笑かしあいだからツッコミを入れると自分が笑うと失格になる可能性があるからツッコミが弱い。だからボケっぱなしでいて最終的には全裸になって下ネタしかできなくなる。これじゃあ素人と変わらなくねって思うわけになるわけです。
だけど考えてみれば何万もの人が見る映像で全裸になったりするのってお笑いとしてはプロだと思いますよ。実際、僕がもしお笑い芸人志望だったとしてもそれをやろうとは思わない。プロ志望としては失格だ。目的のためなら手段を選ばないのがプロ。
しかしですよ、やっぱり僕ら普通のテレビバラエティ慣れしている人間からしていきすぎた下ネタは下品にしかうつらないわけなんですよ。優秀なテレビマンたちが必死こいて放送コードを照らし合わせながら作ってるわけですよ。結果的にこれが面白いわけであって、全くフリーの状態って面白くなくなる。
世の中に「自由」って概念があるじゃないですか。
思うに「自由」って何かに拘束されているからこそ「自由」を感じると思うんですよ。
みんな勘違いしているけど、「自由」って手に入れるものじゃなくて感じるものなんじゃないかと。
例えば、あなたが明日、仕事または学校へ行かなくてもいい、何もしなくても生きていけるようになるとするじゃないですか?そうなると多分、何をしたらいいかわからなくなると思う。実際、僕が中学生の頃にそういうことがあった。規則の厳しい担任を追い出すことはできたけどそのあと僕らはバカだから誰に付き従えばいいのかわからなくなって結局また別の担任に支配されることになったんですよ。
だから自由っていざそうなると何をすればいいのかがわからない。
ドキュメンタルのお笑いもそうだと思う。テレビマンの筋書きがあまりないから結局、お笑い芸人個人では何をしたらいいのかわからなくなって最終的には全裸という痛みのお笑いになってしまう。
多分だけど僕たちが松本人志がなぜ面白いと感じていたかと考えると、放送ギリギリの過激性だったのではないだろうか。規則すれすれの危うさがあってそれを笑えていた。
だから規則がなくなり自由となると危うさは消え失せてただの痛みにしかならないんのではと。
まとめると自由の外には自由はなく、役割がわからなくなって混乱してしまう。だから自由を欲するぐらいがちょうどいいのではと。
こういった自由の概念はお笑いだけじゃなく音楽にもおけるポップカルチャーのあり方ではないだろうか?
それでは。