絶対的な道徳って何よ?
今年2月、2018年度から小中学校の「道徳」を正式に特別教科化することが決定されました。皆さんも道徳の授業を受けたことがあると思いますが、教科化されるということは検定教科書を使って、成績も付けるということです。本当に勘弁して欲しいものですな。国が道徳、何が良くて何が悪いを決めていいのかよっていう話です。道徳なんて時代によっても変わるし、立場や状況によっても変わります。
例えば、働いていないことは不道徳かどうか考えてみてください。働いていない人の中には、怠惰で働きたくないという人もいれば、職がなかったり、怪我や病気で働きたくても働けないという人もいます。それなのに、一律的に働いていないことは不道徳と決めることはどうなのかっていう話です。明確な道徳と明確な不道徳は誰でもわかる話です。人を殺しちゃいけないなんて普通は誰でもわかります。問題なのはその間にあるものが国あるいは空気によって道徳か不道徳か判断されることです。
筆者は『アリとキリギリス』という話を題材にした道徳の授業を受けたことがあります。夏の間もあくせくと働くアリ、歌ってばかりで働かないキリギリス。冬になって飢えたキリギリスがアリの家に食べ物を分けてもらいに来るのですがアリはそれを拒絶し、キリギリスは餓死してしまいます。キリギリスは自業自得、アリは無慈悲すぎるなど様々な意見が出ました。どちらの意見もわからなくはなく、どちらが正解かなんて答えは出せません。ここで国(教師)あるいは空気(クラスの多数意見)がどちらかに決めてしまうと恐ろしい話になります。
働かないことが不道徳だと国あるいは空気が決めてしまうと、働きたくないっていう人は論外で、職がないと言ってるのは仕事を選んでいるだけだとか、怪我や病気でも仕事を限定すれば働けるだろとかいう方向に進んでいくことが予想されます。結局は、働いていない人は精神の鍛錬が足りないとかいう根性論に走るのです。そうなると道徳を教科化したところで絶対に所謂いじめ問題は解決しないと断言できます。
何が道徳的で何が不道徳だなんて線引きなどできません。絶対的な道徳というものが存在するのならば教えていただきたいものです。仮に絶対的な道徳が存在し、絶対的道徳人間なんていうものが存在したとしたら、それって最早人間じゃないよねっていう話です。程度の差はあれど、人間とは不道徳な生き物であることを認め、その不道徳とどのように向き合っていくかのというのが重要です。ありもしない絶対的道徳人間をつくり上げようとする教育は明らかに間違いです。
それに道徳というものは、与えられるものではありません。学習や経験を通して自ら作り上げていくものです。道徳教育は学習や経験によって知的地盤を形成した後で行われるべきです。国が知的地盤のない小中学生に押し付ける道徳教育は洗脳とも言えます。百歩譲って押し付けではないにしても、自ら考えるだけの判断材料がありませんから無意味としか言わざるを得ません。自ら考えることができないと、空気によって正しいかどうかを判断してしまうことにもなるので、誰かが言っていたから正しいというような所謂B層と呼ばれるような人間になってしまいます。それでは無意味どころか却って害悪です。
道徳だけでなく、インテリジェンスというものは与えられるものではないのですが、インテリジェンスを磨いていくための教育というのは国から与えられるものですし、学校という閉鎖空間に閉じ込められて行われるわけですから難しい話です。かと言って、知的地盤がない子供に自由な発想を求めても何も生まれません。ゆとり教育が失敗したのは必然で、詰め込み教育を容認せざるを得ないところはあります。自由の中から自由な発想というのはなかなか生まれなくて、ある程度の不自由を与えることによって生まれるものです。
話が少し飛躍し過ぎましたが、道徳というのは国が決めて、与えるものではない、学習や経験によって自ら作り上げるものです。そのためには知的な地盤が必要ですから初等教育の段階では基礎をきっちりと叩き込むべきです。道徳教育は決して不必要なものではありません。知的地盤を形成してから行えばいいのです。そして、絶対的道徳人間を育成しようとするのではなく、根本的に不道徳である人間とどう向き合っていくかを議論すべきです。戦前の「修身」や「教育勅語」を復活させろとかほざいている連中は現実をまったく見ていません。戦前の日本なんて今より遥かにひどいだろ。まぁ見ててください。道徳を教科化したところでいじめもブラック企業も女性の社会進出も何も解決しませんから。
道徳の教科化を否定する不道徳な筆者があえて言いましょう。
罪もない善良な市民の安全を脅かすようなDQNや狂人は今すぐ死んでくれないかなぁと思ってます。
襲撃されてからじゃ遅いんだよ!
魔女狩りならぬDQN狩り部隊が全員まとめて射殺してやれ!
そうは言っても現実的には無理な話。
現実にあってたまるか。