第29回もう一度まなぶ日本近代史~文明開化、西洋化最高や!~

文:なかむら ひろし

 明治政府は列強に負けない国作りをするため、西洋の知識や生活様式を積極的に取り入れていきました。これが教育・文化・思想・国民生活にも大きな影響を与え、所謂「文明開化」と呼ばれる風潮が広まっていくのです。

神道こそ国教なんや!

 明治政府は、朝廷の伝統的な権威を回復させるために神祇官(後に神祇省)を復活させるなど、神道の普及を目指しました。日本古来の神道では、天皇は皇室の祖である神(皇祖神)と一体化した現人神とされており、神道の普及は明治政府の正当性を示す意味でも重要だったのです。しかし、日本に仏教が入ってきてから神道の神様も仏教の仏様も同じように敬う神仏習合の風習が出来上がります。お寺なのに鳥居や狛犬があったりするのがその一例です。そこで明治政府は神道と仏教をきっちり分けようと、まず1868年(明治元年)に神仏分離令を出します。さらに日本古来の神道を国教とするべく、1870年(明治3年)に大教宣布の詔を出し、政府の保護の下で神社神道の普及が進められました。1869年(明治2年)には戊辰戦争の戦死者を合祀するために招魂社が建立され、1879年(明治12年)に靖国神社と改められています。
 しかし、神仏分離令が出されると廃仏毀釈と呼ばれる仏教の排斥運動が神官や民衆によって行われるようになります。政府は神道と仏教をはっきりと区別しましょうと言っただけだったのですが、これによって寺や仏像、経典などの貴重な歴史的資料が多数失われることになります。ただ、この運動はすぐに退潮し、浄土真宗の僧侶である島地黙雷といった神道の国教化に反対し、信教の自由を訴える者が現れるなど、仏教の復興も進んでいくことになります。
 一方、キリスト教に関しては五榜の掲示によって禁止されており、長崎の浦上で浦上教徒弾圧事件が起こると、列強はこれに強く抗議します。列強の多くはキリスト教国ですから、キリスト教を禁止する日本は列強から文明国として認められないのはさもありなんといったところでしょう。キリスト教の禁止が条約改正の足かせとなっていることに気付いた明治政府は、1873年(明治6年)にキリスト教の禁止を解くことになります。その後、キリスト教は知識階級を中心に広がっていきます。新渡戸稲造、内村鑑三、新島襄らがその代表です。
 このように神道の国教化はなかなか上手く進みませんでした。神祇省は1872年(明治5年)に教部省と改められますが、成果を上げることはなく、1875年(明治8年)に「信教の自由」を認める方針へと転換し、1877年(明治10年)に教部省が廃止されると、神道の国教化もお蔵入りしてしまいました。

国民が無学じゃ近代化はできない

 近代化を進めようとしても国民がバカではどうしようもありません。そこで明治政府は、国民の知識水準を高めるために欧米の教育制度を取り入れることにします。まず、1871年(明治4年)に文部省を設置し、翌1872年(明治5年)にフランスの制度を取り入れた学制を公布します。江戸時代には寺子屋という町人向けの民間教育施設があったのですが、各寺子屋が独自の教育を行っていたのに対し、学制では画一的な教育が行われることになりました。これにより、全国に2万校以上の小学校が設立され、学校教育が普及していきます。ただ、農村では子供も貴重な労働力であったことや当時は小学校でも授業料を負担しなければならず、反対一揆が起こったところもありました。
 また明治政府は、高等教育にも力を注ぎます。1877年(明治10年)には旧幕府の昌平坂学問所や開成所を受け継いだ東京開成学校と東京医学校が合併し、東京大学が創設されました。
 民間でも福沢諭吉が慶応義塾、新島襄が同志社英学校、大隈重信が東京専門学校(後の早稲田大学)を創設するなど、私立学校も発展していきます。

都会は西洋ブーム

 文明開化の風潮は、東京などの大都市を中心に国民生活にも影響を与えていきます。1871年(明治4年)に散髪脱刀令が出て、散切り頭や洋服の着用が拡がっていきます。翌1872年(明治5年)に東京の銀座一帯で火災が起こったことをきっかけに明治政府は、防火だけでなく、美観にも考慮して煉瓦造りの洋風建築物を建てていきます。そして、ガス灯が設置されたり、人力車や鉄道馬車も走るようになります。食に関しては、食肉文化が普及し、牛鍋が流行しました。また、旧暦(太陰太陽暦)が廃止され、太陽暦が採用され、暦も大きく変わりました。旧暦の明治5年12月3日が太陽暦の明治6年1月1日となり、日曜の休日制も採用されました。
 暦に関しては反対派も多かったのですが、その割りにスピード決着しています。実は、これには明治政府の財政難が関係しています。旧暦では暦と季節にズレが生じないように約3年に1度、閏月があります。明治6年は閏月があり1年が13ヶ月となります。そこで旧暦の明治5年12月3日を太陽暦の明治6年1月1日にすることで、公務員に支払う給料が2ヶ月分も浮くのです。お金がなかった明治政府ですから反対派にこう言って納得させたのです。それぐらい明治政府の財政は厳しかったということです。
 文明開化の中で、西洋のものは何でも進んでいる、伝統的な文化はすべて時代遅れだと否定する風潮も広がり、ドイツ人医学者ベルツなどにたしなめられたりしています。ただ、そんな文明開化による西洋化は一部の大都市などに限った話で、田舎の農村などでは江戸時代からの伝統的な生活様式が続いていました。当時から都市部と田舎の格差は大きかったのです。

明治の大ベストセラー『学問のすゝめ』くらいは読んでみては?

 開国以降、西洋から様々な文化が入ってきたわけですが、西洋思想も広がりを見せていきます。明治の新思想としては欧米の功利主義、自由主義というものがあります。特にイギリスの功利主義という「社会の幸福、利益を追求することを優先せよ」という思想が流行します。これを日本に広めたのが福沢諭吉です。福沢の記した『学問のすゝめ』は大ベストセラーとなり多くの人々に読まれました。他にも『西洋事情』『文明論之概略』といった著作が有名です。また、中村正直は『西国立志編』(『自助論』スマイルズ著)『自由之理』(『自由論』ミル著)という外国の著作を翻訳して、功利主義や自由主義を紹介しています。幕末期から西洋の立憲政治を研究していた加藤弘之は『国体新論』を記し、天賦人権論を唱えました。「人は生まれながらに自由・平等といった基本的人権を天から与えられているのだ」という思想で、後に自由民権運動を指導する理論となりました。しかし、加藤自身がこれを否定し、自由民権運動に反対するようになりました。他に自由民権運動の発展に貢献した人物に中江兆民がいます。中江は、ルソーの『社会契約論』を翻訳した『民約訳解』を記しています。
 こうした思想が普及していった背景には、本木昌造が鉛製活字の量産に成功したことによる活版印刷技術の発達が挙げられます。これによって、日刊新聞や雑誌が多数刊行されることになったのです。1870年(明治3年)に日本最初の日刊新聞『横浜毎日新聞』が発行されると、次々と日刊新聞が創刊されていきます。また、1873年(明治6年)には森有礼の提案で西村茂樹、福沢諭吉、中村正直、加藤弘之、津田真道、西周ら洋学者が集まり、明六社という学会が組織されます。薩摩出身の森以外のメンバーは、小藩出身ながらも能力を買われて幕府で研究者として働いていた人たちで、福沢以外は明治政府にも出仕しています。明六社は『明六雑誌』を発行したり、講演活動を行うなど、近代思想の普及に貢献しました。

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当時のアーバンピープルの文明開化のイメージ。
「散切り頭を叩いてみれば 文明開化の音がする」は当時の世相をよく表した都都逸です。
阿修羅像で有名な奈良の興福寺の五重塔が現在の価値に換算すると50万円くらいで売りに出されたというくらい伝統が軽視されていました。
何に関してもバランス感覚って大事なんですな。

 しばらくの間、内政ばかりが続いていましたが、次回は明治初期の外交問題をやっていきます。ネトウヨが大好きな某国も登場するよ!

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