第30回もう一度まなぶ日本近代史~明治初期の外交、これぞサムライスピリッツ?!~
前回までは明治政府の内政ばかりやってきましたが、今回は明治初期の外交をやっていきます。明治政府の外交における最も大きな課題は不平等条約の改正でした。しかし、列強からは未開の小国という扱いを受けて上手くいきません。そこで前回までにやってきたような改革が次々と断行されるようになったのです。
失敗だらけの岩倉使節団
1871年(明治4年)、明治政府は右大臣岩倉具視を大使とする岩倉使節団を欧米へ派遣しました。使節団の本来の目的は、条約を結んだ国へ国書を届けることでしたが、同時に条約改正の予備交渉を行い、欧米の国情を視察することも目的としていました。
岩倉使節団は、副使の大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳のほか多くの随員、留学生も含まれており、総勢107名という大規模なものでした。留学生の中で特に有名なのが津田梅子です。津田は後に女子英学塾(現在の津田塾大学)を創立し、当時のマナー教室とか婚活教室みたいなことばかりやっていた女子教育から女子にも学問を修めさせようとする女子教育の発展に大きく貢献したとか言われています。留学生たちは帰国後、木星帰りのニュータイプみたいな扱いを受けて重宝されることになります。しかし、一部優秀な人もいましたがほとんどが「誰やねん!」と言いたくなる大した活躍をしていない人ばかりでした。
肝心の条約改正に関しても「近代的諸制度も確立していない癖に対等に扱ってもらおうなんて片腹痛いわ」と相手にされませんでした。実はアメリカだけは条約改正に乗り気だったわけですが、条約締結などの際に自分はその権限を持っていますよという証明になる全権委任状の存在を知らず、「そんなことも知らないようじゃ条約改正なんてできませんよ」と呆れられました。そんな失態を見せた使節団は欧米やその植民地を視察した結果、日本はまだまだ遅れていると痛感し、次々と改革が行われるようになります。中でも大久保や伊藤は、明治維新と同時期に近代国家として確立したドイツの首相ビスマルクに感銘を受けます。後に伊藤らが起草する大日本帝国憲法がドイツ式だとか言われるのは、こういう経緯からではないでしょうか。
小国であっても領土問題は譲らない
幕末、日露和親条約で千島列島の択捉島以南を日本領、得撫島以北をロシア領、樺太は両国の雑居地としたことを覚えているでしょうか?この樺太を雑居地としたことでいろいろと問題が起きていました。ロシアは樺太を流刑地にしており、凶悪犯が多数送り込まれていました。そのため、アイヌの人たちが殺されるなどの事件が多発していました。北海道開拓に集中したい明治政府は、樺太を放棄してしまおうという意見が強まり、開拓次官の黒田清隆はその側近である榎本武揚をロシアとの交渉に当たらせます。1875年(明治8年)、榎本は「樺太はやるから千島全島をよこせ」という千島樺太交換条約を締結します。小国日本が大国ロシアと対等な交渉を行ったわけですから大したものです。
さらに翌年1876年(明治9年)には、小笠原諸島を正式に日本領としています。当時、小笠原諸島には日本人、アメリカ人、イギリス人が住んでおり、どこの国のものなのかはっきりしていませんでした。そこで「アメリカさんもイギリスさんも本国から遠いし、うちが貰っておきますね。もちろん、今住んでいる人たちの財産なんかは保障しますから」と言って、認めさせたのです。現在とは大違いですね。
初めての対等条約
朝鮮半島は日本にとって安全保障上とても重要な場所です。ここをロシアに奪われでもしたら・・・と考えると日本は一時も安心できません。明治政府は、江戸時代より鎖国状態にあった朝鮮を開国、近代化させることで朝鮮にもロシアの脅威と向き合ってもらう必要がありました。しかし、朝鮮は日本との国交要求を拒否し続けたのです。そこで明治政府は、朝鮮の近代化が進まないのは朝鮮の保守派が宗主国である清にべったりであるからだとし、まずはその清と対等な関係を築くことで朝鮮にも意見を通しやすくなるのではないかと考えました。1871年(明治4年)、元宇和島藩主で大蔵卿の伊達宗城が清の李鴻章と交渉を行います。李鴻章は洋務運動(近代化)を推進する改革派で、日本が欧米と組むことを恐れ、日本と条約を締結することに乗り気でした。そして、日本よりも大国の清と日本にとって初めて対等な条約である日清修好条規を締結します。ただ、対等といってもお互いに領事裁判権を認めるなど変則的な対等条約でした。
琉球はウチのモン
日清修好条規が締結された同年、台湾に漂流した琉球の人々が先住民に殺害されるという琉球漂流民殺害事件が起こります。明治政府は清に対して責任を取れと抗議するのですが、清は台湾先住民を「化外の民」(管理外である)と言って、責任を取ろうとしませんでした。すると明治政府は「台湾が化外って言うんだったら出兵して落とし前をつけさせてもらっても問題ないよね」と、1874年(明治7年)に西郷従道の下、台湾出兵が行われます。ただ、明治政府の中にもこの出兵に反対する人もいて、木戸孝允なんかは台湾出兵に怒って政府を去ってしまいます。一方、清も台湾を「化外」と言っちゃったものの、実際にはそんなことはなく、日本に猛抗議します。事後処理を巡って日清は交渉を開始しますが、全権の大久保利通は本気かどうかは別として「清と戦うことも辞さない」と強硬姿勢を見せ、きな臭いことになっていました。そこに英国公使ウェードが仲裁に入り、日本に味方してくれたこともあり、最終的に清は日本の出兵を義挙として認め、賠償金を支払うことで解決しました。
室町時代に琉球は薩摩の支配下に入ったのですが、同時に中華帝国にも朝貢を続けるという両属関係にありました。それまでは琉球がどちらのものかをはっきりさせないことがどちらにとっても都合が良かったのですが、この頃は誰のものかはっきりしない土地は自分のものにしちゃってもいいという時代になっていました。そのため、明治政府は琉球を正式に日本のものとする必要があったのです。1872年(明治5年)、琉球藩を置き、琉球国王の尚泰を藩王とし華族に列します。さらに前述の台湾出兵で「日本が自国民を守るために出兵した」つまり「琉球民は日本国民だ」と認めさせ、1879年(明治12年)に廃藩置県を断行し、沖縄県を設置する琉球処分が行われました。
初めての日本有利な不平等条約
先ほど少し触れましたが、日本にとって朝鮮は安全保障上重要な場所です。朝鮮に近代化してもらうことは、日本にとっても必要なことだったのです。江戸時代は対馬の宗氏が朝鮮と独自の交流を行っており、半島に倭館も与えられていました。明治政府が樹立すると宗氏の外交権は剥奪され、外交は明治政府に一元化されます。そして、倭館も明治政府が占拠します。そして明治政府は朝鮮に国書を送り、今後は天皇が日本を統治することを伝え、正式な国交要求を行います。しかし、朝鮮は「宗氏とは上手くやってたのに勝手なことすんな!それに天皇って何だよ!『皇』の字を使っていいのは中華皇帝様だけやろがい!」と明治政府の要求を再三拒否し続けます。(ちなみに現在でも天皇のことを日王と呼んでいます)そのため、日本では征韓論という武力を背景に強引に開国させようという主張が高まりました。西郷隆盛、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らがこの征韓論を唱えています。板垣退助みたいに「今すぐ朝鮮に出兵しろ!」なんて言う人もいましたが、さすがに相手にされませんでした。この征韓論は廃刀令などで特権を剥奪され政府に強い不満を持っていた士族に怒りの矛先を海外へ向けさせる狙いもあったと言われています。
しかし、1873年(明治6年)に岩倉使節団が帰国すると、大久保利通や木戸孝允は「日本は欧米に比べてまだまだ遅れているから内治を優先すべきだ」という内治優先論を唱え、征韓論は時期尚早であると反対します。結局、征韓論者は破れ、西郷らは一斉に下野してしまいます。これが明治六年の政変です。
その後も朝鮮問題は一向に解決の糸口が見られず、明治政府も業を煮やしていました。そんな中、1875年(明治8年)に江華島事件が起こります。明治政府は朝鮮に軍艦雲揚を派遣し、釜山で発砲演習を行ったり、朝鮮沿岸で測量を行ったり、プレッシャーをかけていました。雲揚の艦長は飲み水を求めるため、江華島にボートで近づくと、朝鮮から砲撃を受けます。これに対して雲揚は反撃を開始します。射程距離の違いにより、日本は戦いを優位に進め、江華島の砲台を破壊し、永宗城を占領しました。明治政府はこの事件について朝鮮と交渉するため、清に日朝間交渉の斡旋を依頼します。宗主国の清が言ってくれたら朝鮮も交渉を行ってくれるかもしれないと考えたのです。
そして、清の李鴻章の働きでついに朝鮮と交渉が実現し、1876年(明治9年)に日朝修好条規が結ばれました。これは朝鮮を開国させ、国交を結ぶと同時に領事裁判権を認めさせるなど日本にとって初めての日本有利な不平等条約でした。宗主国の清と対等条約を結んだのですから属国の朝鮮とは対等条約を結ぶわけにはいきません。そんなことよりも重要なのは、朝鮮と条約を締結することで、清も朝鮮も気が付いていませんでしたが、朝鮮をひとつの独立国として認め、清の宗主権を否定したことにあったのです。
大国ロシアにもビビらず千島樺太交換条約を結んだ榎本武揚。
実はロシアがオスマン帝国と揉めている弱みに付け込んだのです。
国際法もきっちり勉強して、ロシアに言いたい放題とか爽快ですな。
黒田清隆とは箱館戦争では敵同士だったのですが、榎本が「自分は死んでもこれらの洋書が焼失することは国家にとっての損失だ」と言って、黒田に書物を託したことから友情を深めたのだとか。
明治政府はあらゆる分野において急進的な改革を進めていきましたが、国内にはそれに反対する勢力が存在していました。そして次回、征韓論争によって下野した人たちが担ぎ上げられ政府に対する反乱が起こります。