第31回もう一度まなぶ日本近代史~西南戦争と自由民権運動、ふざけんな明治政府!~

文:なかむら ひろし

 明治政府は様々な近代化政策を断行してきました。そのため、あまりにも急速な変革に付いてこれない人も大勢いたわけです。さらに征韓論争から起こった明治六年の政変で、多くの有力者が政府を去っていくことになります。そして、彼らは様々な形で政府へ反抗していきます。

自由民権 is freedom

 明治六年の政変により土佐・肥前の有力者の多くが下野しました。土佐出身の板垣退助、後藤象二郎、肥前出身の江藤新平、副島種臣らは、1874年(明治7年)1月に日本初の政党となる愛国公党を結成し、民選議院設立の建白書を左院に提出します。民選議院とは現在で言うところの国会です。彼らは有司専制(有司とは上級の役人でこの場合は薩長閥、特に大久保利通を指します)を非難し、税金を納めている国民には当然政治に参加する権利があると政府に訴えたのです。
 この民選議院設立の建白は却下されたものの、英国人ブラックが発行する新聞『新日真事誌』に掲載されると、民選議院論争が全国に広がります。加藤弘之は「先に国民の教育、地方議会の設置で政治に慣れさせるべき」と主張し、大井憲太郎や津田真道は「先に民選議院を設立することで国民の知的レベルが向上するんだ」などと主張しています。ちなみに政府に都合の悪い記事は外国人の発行する新聞に載ることが多いのですが、それは不平等条約によって領事裁判権を認めているため、彼らを罰することができないからだったりします。
 この大きな波紋を生んだ愛国公党ですが、中心メンバーの板垣らが郷里に帰ってしまったため、僅か1ヶ月程度で自然消滅しています。

政府と仲直り?

 1874年(明治7年)4月、土佐に帰った板垣退助は、愛国公党で一緒だった片岡健吉を社長とする立志社を結成します。翌年には、立志社を中心に全国の民権派結社が集まって愛国社を結成し、自由民権運動を盛り上げます。
 一方、板垣らの建白を退けた政府でしたが、憲法を制定し、国民に参政権を与え、国会を開設するという立憲政治への移行を時期尚早と考えていただけで、完全に否定していたわけではありませんでした。そこで大久保は自身への非難を避け、政権を安定させるために板垣、台湾出兵で下野していた木戸孝允と大阪で会合を開きます。1875年(明治8年)に行われた大阪会議で板垣と木戸を政府に復帰させ、徐々に立憲政治へ移行することを約束した漸次立憲政体樹立の詔を発布し、左院を廃止して来るべき立憲政治へ向けて立法諮問機関として元老院(選挙のない国会のようなもの)、司法機関として大審院(最高裁判所みたいなもの)が設立されます。
 さらに政府は「地方自治は民主主義の学校」という言葉があるように地方自治にも着手していきます。まず、府知事・県令を集めて地方の情報収集を行う地方官会議を設置します。1878年(明治11年)には郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則の地方三新法を制定します。これにより郡区町村が再編され、町村にも一定の裁量が認められたり、公選による府県会が開催され、地方税の予算案の審議権が認められるなど、まだまだ権限は限定されながらも豪農や地主の政治参加や地方自治が進んでいくことになりました。
 これだけ見ると板垣ら自由民権派が大勝した感じですが、政府は同時に新聞の内容に規制をかける新聞紙条例や事実の有無に関係なく他人の名誉を毀損してはならないという讒謗律を公布し、反政府的言論を厳しく取り締まるようになります。さらに板垣が政府に復帰したことで愛国社は消滅し、自由民権運動は下火となっていくのです。

言論じゃアカン!肉体言論や!

 一方、廃藩置県・徴兵令などで特権を剥奪された士族にも政府に対する鬱積を溜め込んでいる人たちがいました。1874年(明治7年)に板垣と共に愛国公党を結成した江藤新平は郷里である佐賀に帰ると、彼ら不平士族に担ぎ上げられ、征韓党の首領となり、政府に対して武力反乱を起こします。これが佐賀の乱です。さらに1876年(明治9年)に廃刀令や秩禄の強制奉還が断行されると、熊本の大田黒伴雄が神風連の乱を起こし、これに呼応するように福岡では宮崎車之助が秋月の乱、山口では前原一誠が萩の乱を起こすなど不平士族の武力反乱が相次ぎます。これらの反乱は政府が速やかに鎮圧していったのですが、まだラスボスが残っていたのです。
 島津久光が文句ばかり言って改革がなかなか実行できない、そして明治六年の政変で下野した明治維新最大の功労者のひとりである西郷隆盛がいる鹿児島は、政府にとって反政府勢力のラスボスと思われていたわけですが、西郷は私学校を開き、人材の育成と共に不平士族の暴発を抑えていました。しかし、不平士族たちは政府から送られてきた役人の「西郷をシサツしに来た」という言葉に激怒します。冷静に考えればそんなわけはないのですが、「視察」を「刺殺」と勘違いしたのです。西郷は怒れる不平士族を抑えることができなくなり、1877年(明治10年)2月、日本史上最後の内乱となる西南戦争が始まりました。開戦当初、西郷軍は善戦しますが、熊本城攻略に失敗すると戦局は政府軍有利に傾きます。明治政府は6万の兵力を動員し、半年以上もかけてようやく鎮圧に成功しました。不平士族たちは西郷を擁しても武力で政府を倒すことができなかったことから、武力反乱を諦めて以後言論による反抗へと移行していきます。そうは言っても、完全に武力による反抗がなくなったわけではなく、翌年1878年(明治11年)には大久保利通が暗殺される紀尾井坂の変が起こっています。また、西南戦争には徴兵令によって集められた兵士も動員されており、士族じゃなくても鍛えれば強い兵士になるという証明にもなりました。

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自由民権運動のブルース

征韓論争に敗れて下野して
民選議院設立の建白書を提出した後
大久保と仲直りして政府に戻ってきたものの
政府がなかなか民主化を進めてくれなかった時の話やけど

国民から支持は集めたいし
土佐派の権力も強化したいから
「今すぐ憲法を制定して民主化を進めろ!」
って政府にケンカを売ってでも強く主張するのか

それとも

せっかく政府に戻ってこれたし
「あえて政府にケンカ売ることないか」
「国民に対しては適当なポジショントークでごまかしてたらええわ」
って時期尚早論に乗っかるのかは・・・

自由だ!

自由民権 is freedom
自由民権 is freedom
自由民権 is freedom
自由民権 is freedom

でも

あんまり急いで民主化を進めると
世論の暴走を抑えられなくなってえらいことになるで!

※元ネタがわからない人は「乾タイスケ」いや・・・犬井ヒロシで検索してみよう

 板垣が懐柔されて下火になったと思われた自由民権運動でしたが、西南戦争の終結と政府にいるある人物のせいで再び盛り上がります。あの有名大学の創設者が政府を掻き乱すのです。

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