第32回もう一度まなぶ日本近代史~明治十四年の政変、憲法は政府主導で作るんや!~

文:なかむら ひろし

 明治六年の政変によって下野した板垣退助らがほとんど腹いせに近い形で起こした自由民権運動は盛り上がりを見せるも、大阪会議で板垣が政府に復帰してしまったことや同じく下野していた西郷隆盛が西南戦争を起こしたことによって下火になっていました。しかし、西南戦争の戦局が政府有利に傾くと言論で政府を動かすしかないという考えに移行していき、再び自由民権運動が盛り上がりを見せるようになります。

農民も巻き込んでしまえ

 大阪会議で政府に復帰した板垣退助でしたが、案の定というか何というか政府内で対立を深め、僅か半年ほどで再び下野してしまいます。1877年(明治10年)、西南戦争が行われている中、板垣ら立志社は有司専制など政府批判と共に早期国会開設を求めた立志社建白を天皇に提出しようとするなど自由民権運動を再興させます。さらに西南戦争が終結すると武力反乱を諦めた不平士族たちが合流し、1878年(明治11年)に愛国社を復活させます。
 また、この頃になると政府による地方分権が進められ、府県会が開催されるようになっており、地方の地主・豪農層にも政治的関心が強くなっていました。自由民権派は、早期国会開設以外に地租軽減を掲げていたこともあり、地方の地主・豪農層からも支持を集めることになります。それまでの士族中心の士族民権から地方の地主・豪農層などを含めた大規模な豪農民権へと発展していったのです。
 そして、1880年(明治13年)に愛国社は全国の民権派結社を大阪に集めて、第4回愛国社大会を開催します。そこで2府22県約87000人の国会開設を求める署名が集まり、河野広中・片岡健吉を代表とする国会期成同盟が結成されました。これに対して、政府は集会条例を出して民権派の活動を妨害しますが、最早これを抑え切ることはできませんでした。

政府の中にも敵がいた

 盛り上がる自由民権運動をさすがに無視できなくなった政府も、内部の反対派を説得しながら、どのように立憲政治へと移行していくのかを話し合いますが、「ゆっくり進めていくしかないよね」という結論に至ります。しかし、参議大隈重信が人気取りのために勝手なことを言い出してしまいました。1881年(明治14年)3月、1年以内に憲法を制定しその翌年中に選挙を実施して、2後には国会を開催してイギリス流の政党政治を行うと上奏してしまったのです。この頃、維新三傑と呼ばれた西郷隆盛が西南戦争に敗れて自刃し、大久保利通が紀尾坂の変で暗殺され、木戸孝允も病死したことで政府の中心人物となっていた伊藤博文・井上馨は、大隈と協調していくつもりだったのですが、この大隈の勝手な行いに激怒します。
 さらに間の悪いことに、同年夏に開拓使官有物払下げ事件が起こります。薩摩出身の開拓使長官黒田清隆は、10か年計画で進められていた北海道開拓使の満期に伴い、「政府は財政難だし赤字続きの官営事業なんてさっさと払い下げてしまえ」と、1400万円を投じた事業を39万円無利息30年払いという破格で、同じ薩摩出身の政商五代友厚に払い下げようとしました。しかし、大隈が「いくらなんでも安すぎだろ!しかも友達に払い下げるとかふざけんな!」とこれに反対します。さらにこのことが大隈と親しい新聞に載ってしまい、凄まじい政府バッシングへと発展するのです。政府は大隈が新聞にリークしたに違いないと疑い出し、この疑惑は「大隈は自由民権派と共謀して政府転覆を企んでるんや!あっ大隈と懇意にしてる三菱も怪しいで!」とまで飛躍していきます。
 その結果、1881年(明治14年)10月に政府は、天皇の力を借りて大隈を政府から追放し、10年後に憲法を制定し国会を開設すると約束する国会開設の詔を出し、開拓使官有物の払下げを中止して火消しを行いました。これが明治十四年の政変です。こうして、政府は形勢逆転し、自らが主導して立憲政治へ移行させることになったのです。

来るべき国会へ向けて政党を作ろう

 国会開設の詔が出たことをきっかけに自由民権派を中心に次々と政党が結成されていきました。まず1881年(明治4年)10月に国会期成同盟を母体とした自由党が結成されます。翌年4月には、下野した大隈重信によって立憲改進党が結成され、同年には政府を支持する立憲帝政党も結成されます。また、地方にも多くの自由民権派政党が結成されています。

 ここで代表的な3党の特徴を見てみましょう。

自由党
党首:板垣退助
主張:フランス流自由主義、一院制・主権在民・普通選挙など急進的
支持母体:地方の地主・豪農層

立憲改進党
党首:大隈重信
主張:イギリス流立憲君主制、二院制・君民同治・制限選挙などやや穏健
支持母体:都市部のインテリ層

立憲帝政党
党首:福地源一郎
主張:ドイツ流立憲君主制、天皇主権・制限選挙など保守的
支持母体:神官・官吏など保守層

 こうして結成されていった自由民権派政党は、私擬憲法と呼ばれる憲法私案を作ったり、地方遊説を行って勢力拡張に努めるなど、活発な活動を見せました。(私擬憲法で有名なのが土佐出身の植木枝盛の『日本国国憲按』と立志社の『日本憲法見込案』があります)しかし、これらの活動も次第に退潮していきます。

インフレを退治しろ!

 明治政府は樹立当初、お金がなくて不換紙幣をバンバン発行したり、豪商からお金を借りて改革を行っていたという話は以前したと思います。大蔵卿だった大隈は殖産興業を進めるために積極財政を行いますが、いつ倒れるかもわからない政府が発行する不換紙幣には信用がありません。にも関わらず、不換紙幣を濫発したことで紙幣の価値が下がり、インフレを起こしていました。そんな中、西南戦争が勃発し、戦費をさらなる不換紙幣発行で賄ったこともあり、インフレはさらに加速していったのです。
 大隈は、インフレを収拾するために1880年(明治13年)に工場払下げ概則を出し、軍事産業以外の赤字続きの官営事業を民間に払い下げて、財政整理と共に民間産業の育成を図りました。しかし、投資した分の元を取ろうと高い価格設定を行ったため、払い下げは上手く進みませんでした。また、外債(外国から借金する)を使って世に出回った不換紙幣を回収し、処分することで紙幣価値を上げようとするのですが、政府内で反対されます。さらに西南戦争の恩賞をケチったことで、不満を持った近衛兵が暴動を起こすという竹橋事件も起こってしまい、大隈の経済政策は失敗ばかりでした。大隈が明治十四年の政変で追放されたのには、こういった原因もあったのです。
 大隈の後を受けて大蔵卿となった松方正義は、インフレ収拾のために様々なデフレ政策を行います。まず、軍事費以外の歳出を削減する緊縮財政を行います。工場払下げ概則も廃止して官営事業を安価で払い下げていくことで歳出を削りました。次に酒税・たばこ税を増税、菓子税・醤油税を新設し歳入増加を図りました。こうしてなんとか捻出したお金で不換紙幣を回収します。さらに余剰金で正貨(ここでは銀)を買い入れ、1882年(明治15年)には国家の中央銀行として日本銀行を設立します。翌年、国立銀行条例を改正してこれまでの国立銀行を普通銀行にし、通貨発行権を日本銀行に集中します。そして、1885年(明治18年)には兌換銀行券を発行し、翌年から銀兌換が始まり、銀本位制が確立することになります。
 松方財政によってインフレは収拾されたものの、今度はデフレが起こります。これを松方デフレと呼びます。これに大きな打撃を受けたのが農民でした。農民は作った米などをお金に換えて生活していたので、デフレにより物価が下がることで生活が困窮するようになったのです。そして、疲弊した農民が農地を手放し、金持ちのところに財が集中するようになっていきます。また、農民の疲弊は農民から支持を得ていた自由民権運動にも大きな影響を与えることになるのです。

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明治十四年の政変といえば、資料集に載っていた「熊と黒ダコの相撲」がとても印象深かったものです。(私だけ?!)
実現不能な理想論で世論を煽り迷惑をかける熊と酒乱で迷惑をかける黒ダコ。
この愉快な仲間たちが後に内閣総理大臣になるんだから面白い(?)ものです。
どちらも清濁併せ持つ人物なのですが、何故か現在では大隈はいい人で黒田はダメな人みたいになってるのが不思議です。

 松方デフレによって農村が不況に陥ったことで、農民たちから支持を得ていた自由民権運動に亀裂が生じます。次回、板垣さんの名言が炸裂します。

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