邦楽とFMラジオの歴史から見る『生きた化石かしていくアーティストたち』
コンテンツというものには必ず賞味期限がある。
例えば今時ガングロギャルなんて今のポリティカルコレクトネスな世の中でいえば完全にアウト。まだ外国人=アメリカ人的な発想の古いものであって、それは完全に賞味が切れしまっている。食材でいえば納豆が腐っている状態。そんなもんにおいで嘔吐感マックス。
ガングロだけじゃない。ガイヤがもっと輝けさ囁かれていたお兄系や悪党ヅラしてちゃっかりキャンパス生活をエンジョイしていたオラオラ系も頭が鳥籠みたいになっていた姫ギャルも全て賞味期限切れだ。全部クセェ。今時こんな奴らはシュールストレミングよりも臭く腐っている。闇に葬ってしまえ。
また、躍起になって童貞ソーヤングな出会い厨化なmixiも読み上げるととぐろ弟に吸収される妖怪のようになってしまう前略プロフィールも全て腐っている。
やっぱりクセェ!
じゃあコンテンツがちゃんと美味しくいただける期間とはいつまでか?
ツッパリ漫才で80年代を一斉を風靡した島田紳助はかつて「俺らの漫才はせいぜい8年ぐらい」と言っていた。
例えばいわゆる若者、もっと詳しく絞ると20から25歳の大学生もしくはフリーターをターゲットにしたとする。
その場合、提供する漫才のネタがその時代の20から25歳の大学生もしくはフリーターになるわけだから、成長、もしくはこの感覚より後か前の人たちになるとそのネタって全く伝わらない。
考えてみれば一気に売れた漫才師たちってみんなこうやって短期決戦に持ち込んでいたと思う。だからダウンタウンにしてもナインティンナインにしてもロンドンブーツにしてもネタを見たことがない。だから今の僕らにとって彼らが面白いのか面白くないのか判別がつかない。いずれ今の霜降り明星にしてもEXITにしても同じ道を辿るだろうと思うし。
そうやって自分たちの漫才という賞味期限をあらかじめ決めておくことのメリットとしては次のステップへ回るフットワークが軽くなる。
もう自分たちの漫才が時代遅れになったからバラエティ番組の司会、サスペンス劇場の俳優、ロケのリポーター、グルメコメンテーター、朝にその日を祟るために放送されるワイドショーのコメンテーターに転職していくのである。
島田紳助説の8年という月日は長いようで短い。そこには売れるまでの道のりも加算されているし、実質として「売れた」と言える期間は精々3年ぐらいだと思う。
このように売れた後には必ずその寿命があって、その全ては消費され捨てられていく。いわば彼らはジャンクフードなわけである。それはまるでダストボックスにぶち込まれていくハンバーガーの包み紙みたいだ。飽きられたら捨てられていくから現代社会が円滑に回っていくわけでもあるんだけどね。
無駄話が過ぎたな。長すぎや。要は売れた後には消費されていくのがコンテンツということ。今回はこれだけでも覚えておいて欲しい。
そんな全盛期と呼ばれる短い時間。それはまるで線香花火みたいなものだ。パッとパチパチさせてそのあと、ポトってあっけなく落ちてしまう。
しかし、椎名林檎、aiko、宇多田ヒカル。
この3人ってもう二十年も年月が経っているのにいつまでも消費されきれない。
いやこれだけじゃない。スピッツにしろミスチルにせよ奥田民生にせよアーティストとしての息が長すぎる。全盛期はすぎているとは言えまだ線香花火としては丸い赤い火元は落ちていない。むしろコンテンツとして火が落ちるどころかまた新たな火玉になったいたりもする。
彼らの息の長さはなんだろうか?
彼らのプロモーションを考えるとFMラジオとの関わりがかなりあるんじゃないかと思うんですよ。
もちろん彼らの音楽がみな素晴らしいのは前提のことですよ。ここで話すのはメディア媒体としての話になる。だから良し悪しというより聞く手段、知る手段としての話になる。
まず、ここは前提の話になるけどそもそも日本における邦楽というものにいわゆるバンドサウンドっていうのはヒットチャートに入らなかった。全ては歌謡曲。これがJ-WAVE登場以前の邦楽の世界だ。はっぴぃえんどとかサザンオールスターズとかもいるじゃないかという指摘もあるだろうけど、FMラジオ全盛期以前のバンドには歴史的大ヒットということはなかったと思う。ほとんどが歌手かアイドルというのが邦楽だったと思う。
だけど分岐点としてはJ-WAVEが邦楽もかけるようになったことと、FM802が車にステッカーを貼ってもらうキャンペーンとアメリカのラジオ由来のへヴィーローテーション制度にある。
へヴィーローテーションとは今ではパワープッシュとも呼ばれる、その一ヶ月間に重点的に一曲をラジオで流す仕組みで、Queenが今日に至るまで伝説的になっているのはBohemian rhapsodyがイギリスのラジオでプッシュされたからと言われている。
車とラジオ、そしてへヴィーローテーションというこの三点セットが90年代J-pop全般におけるヒットの仕組みなのである。その点で考えればミュージシャンはテレビに出演するよりもラジオを使ったPR効果は絶大だったとも思う。
人間の記憶の仕組みで考えてもこのメディア戦略は強い。
例えば痛みとか苦しみとかそんな記憶が残りやすいのってどうしてか?それは体に感覚として残されるからなんですよ。あのときあの場所を体感した事柄を思え返しながら思い出として想起する。これを”記憶想起”という。
ラジオでのメディア戦略は完全に”想起”にある。僕なんかは車酔いとともに覚えている音楽ってたくさんある。椎名林檎の『本能』なんかは聞いているだけでも目が回ってしまうぐらい車酔いを想起させられる。
思い返せばaikoにしても宇多田ヒカルにしても一番最初に食いついたメディアはFMラジオだった。
宇多田ヒカルなんて確かデビューの頃、金曜日に自分の冠番組を持っていたと思う。
そう考えるとFMラジオというメディアの強さは絶大だった。
現在はどうか?
当時ほどではないにしろ、やはり影響力は強い。やっぱり車運転してて思うけど毎度、音楽を取り替えるのもめんどくさいし、適度に何かは流しててほしい。だからラジオって強い。
以上のことからJ-popの歴史的背景がラジオにあることを前提に考えると、その創成期から過渡期にいたアーティストたちが生き残っているのは当たり前の話。だってずっと車の中で聞き続けた音楽は今でもずっとかかり続けるわけであるから。
だから今の音楽って生きた化石化していっているんだろうと思う。
今のラジオの音楽を聞いて見て欲しい。いまだにJudy and marryなんかが流れていますよ。それはリクエストする人があの当時の頃から変わっていないからなんですよ。それがある意味、現代ラジオの弱点でもあると思う。流れてくるものがほぼ20年ぐらい前から変わっていない。そりゃ生きた化石化しますよね。
だから平成が始まった頃からずっと続いている伝統化してしまったJ-popというフォーマットの文法がもう出尽くしてしまっている点が最大の弱点であるのと同時に現在ラジオプロモーションにおける脅威として音楽プロモーションがスマホと金さえあればSNSで誰でもできる環境になったという点がある
そう考えればこれから五年ぐらいでいろいろと音楽界の広告のあり方って随分と変わるかもしれない。
インスタであれば一口3000円もあれば一週間は告知できるわけだから。個人で広告代理業務が格安でできるなんてつい十年前までは考えらなかったし。
まぁ未来のことばかりはその時が来ないとわからないですけどね。
ただこれから先、さらに世界は変わりますよというお話です。
長々とご静聴ありがとうございました。
こちらからは以上です。
それでは。