第33回もう一度まなぶ日本近代史~こまけぇこたぁいいんだよ!!大同団結運動~
西南戦争の終結により自由民権運動が再興し、国会開設の詔が出たことで自由民権派政党が次々と結成されていくなど隆盛を極めていくわけですが、松方正義の緊縮財政によって引き起こされたデフレによって農村は困窮化していきます。地租軽減を掲げ、農民を取り込んでいた自由民権派は分裂していくことになるのです。
買収される自由の神様(笑)
明治十四年の政変で大隈重信を追放した政府は一枚岩となり、政府主導で立憲政治への移行を進める一方で、新聞紙条例・集会条例を改正して自由民権運動の取り締まりを強化していきます。また、厳しく取り締まるだけでなく、内部分裂を誘うような方法も考えていました。
1882年(明治15年)4月、岐阜で遊説していた板垣退助が暴漢に襲撃される岐阜事件が起こります。襲撃された時に「板垣死すとも自由は死せず」という名言を残したことにされている事件です。板垣が襲撃されたことを知った政府は、半ば恩を売る形で見舞金を送ります。板垣は最初暴漢を政府の刺客と疑ったのですが、どうやら違うとわかると見舞金を受け取っています。その後、同年末から翌年にかけて、政府の井上馨の斡旋で板垣退助と後藤象二郎がヨーロッパへ外遊することになりました。(ちなみに資金の出所は三井で、井上には「三井の番頭」なんていうあだ名がありました)政府の狙いは、無茶なことを言う板垣たちも実際に外国に行って勉強させ考えを改めさせることと、自由民権派トップを引き離すことで分裂を誘発することでした。その結果、板垣たちは「さすがに革命だらけのフランスはヤバいな」とイギリス流を目指すようになりました。また、自由党内部や立憲改進党から「政府に買収されてんじゃねぇよ!」とバッシングを受けることになります。この時、中江兆民らが自由党から離れており、政府の分断工作は成功しました。さらに自由党の方も立憲改進党に「お前らも三菱とズブズブじゃねぇか!」と攻撃し始め、泥仕合となりました。
暴走する自由民権運動
トップがこの様ということもあり、自由党員の中には暴力による政府打倒を志すような急進派が現れました。一方、農民はデフレによる困窮から「生活が苦しいのに運動なんかやってられるか」と言う人が大勢居る中、「政府をやっちまおう!」と急進派に同調する人もいました。こうした中で起こったのが激化事件です。ここでは代表的なものを3つ紹介したいと思います。
1882年(明治15年)福島事件
薩摩出身の福島県令三島通庸は、東北の近代化を進めるべく会津から新潟、栃木、山形に通じる県道(会津三方道路)の着工を県会の反対を押し切って断行します。着工の際、農民にも労働による協力を要求し、協力しない者の財産を競売にかけました。県会議長の河野広中はこれに激怒し、福島の自由党員や農民と団結して、反対運動を行いました。反対運動が激しくなると、その中心人物でった佐治幸平らが逮捕されたことがきっかけとなり、数千人の人々が警察署に押しかける大騒動となりました。三島はこの反対運動を政府に対する反逆だとして弾圧に踏み切り、なんと河野を含めて約2000人を逮捕してしまったのです。
何だか三島ってものすごい悪い奴に見えるかもしれませんが、東北発展の礎を築いたという点では評価されるべきです。また、土木の達人で道路マニアの間では「三島の道路はすごい」と言われているとか・・・板垣が自由の神様なら三島は道路の神様といったところでしょうか。
1884年(明治17年)加波山事件
福島事件で三島に怨みを持った自由民権派が三島を爆殺しようと計画するも、それが未然に発覚し、茨城県にある加波山に立てこもり、政府転覆を掲げて大衆に決起を促しました。その後、解散するも約300人が逮捕されました。
1884年(明治17年)秩父事件
埼玉県秩父地方で自由党員が困窮した農民たちを集めて、田代栄助を党首とする困民党を結成し蜂起しました。その目的は、暴力を用いないで高利貸しや役所に押しかけて帳簿を破棄し負債をチャラにする、政府に対して地租軽減を訴えるというものでした。1万人以上の逮捕者を出す大規模な蜂起で、政府は軍隊を出動させて鎮圧しなければならないほどでした。事件後、田代ら首謀者たちは死刑に処されました。
実は加波山事件の後、急進派を抑えきれなくなった自由党は、もはやまともな活動はできないとして、解党されています。田代らは、自由党の解党を知らないまま秩父事件を起こしたようです。
この他にも1883年(明治16年)高田事件、1884年(明治17年)群馬事件、飯田事件、名古屋事件、1885年(明治18年)大阪事件、1886年(明治19年)静岡事件など東日本を中心に全国で激化事件が頻発しました。大阪事件に関しては、朝鮮問題と関連しているので、その時に詳しく紹介したいと思います。
激化事件が続く中で、自由党が解党され、同じ年に立憲改進党も大隈重信が党を離れたことから有名無実化しており、自由民権運動は衰退していくことになるのです。
今はいがみ合ってる場合ちゃうやろ!
1886年(明治19年)末頃から自由民権派の後藤象二郎、星亨らが中心となり、「国会開設が近づいてるのに俺らが争ってたら政府の思う壺やろがい!」と、反政府勢力が団結して国会で過半数を取れるような政党を作ろうと主張し、旧自由党や立憲改進党の人々に呼びかけたのです。これが大同団結運動です。「大体同じことを主張してるんだから、こまけぇこたぁいいんだよ!!」という感じです。翌1887年(明治20年)に片岡健吉が元老院に外交失策の挽回・地租軽減・言論集会の自由を求めた三大事件建白書を提出したことをきっかけに、これを支持する三大事件建白運動が盛り上がります。これが大同団結運動と結び付いて、政府を驚かせることになったのです。
これに対して、政府は1887年(明治20年)12月に保安条例を出します。これは勝手に集会を開いたり、政府が危険人物だと判断したら皇居の3里以遠へ追放し、3年間立ち入り禁止にするというものでした。これによって、中江兆民・星亨・片岡健吉・尾崎行雄ら450余名が追放されました。
また、今回も政府は弾圧だけでなく、内部分裂を狙います。第1次伊藤内閣で条約改正に失敗した井上馨の後任として大隈重信を外務大臣に登用し、黒田内閣では後藤象二郎を逓信大臣に登用するなどして大同団結運動を混乱に陥れます。結局、旧自由党は新党を結成しようとする河野広中の大同倶楽部と自由党を復活させようとする大井憲太郎の大同協和会(後に自由党に改称)に分裂し、大同団結運動は崩壊してしまいます。しかし、大同団結運動の際に蔑ろにされたことに腹を立て距離を置いていた板垣退助は愛国公党を結成してもう一度旧自由党系で団結しようと訴え、3派が合流して板垣を党首とする立憲自由党となり、議会に臨むことになります。一方、黒田内閣で入閣してしまった後藤象二郎は完全に無視されたことから独自の派閥で国民自由党を結成して、立憲自由党と戦うことになります。立憲改進党も大隈が伊藤内閣で入閣したことから自由党との関係が悪化し、自身の条約改正失敗もあって、党勢回復には至りませんでした。
大同団結運動を進めた星亨。
後に自由党内の派閥抗争に勝利して、党内最大権力者となります。
日本人初の弁護士ということもあり口ゲンカが強く、汚職疑惑なんて軽くかわしちゃいます。
衆議院議長時代に議長不信任案が可決されるのですが、悪びれることなく議長席に座り続けるという鋼のメンタル。
そんな彼に付いたあだ名は「おしとおる」です。
まぁこんな人ですから最期はどうなったかなんて想像できますよね。
次回は、条約改正交渉についてやっていきます。片岡の提出した三大事件建白書にある外交失策とは、条約改正交渉の失敗だったわけです。