第34回もう一度まなぶ日本近代史~条約改正は見てくれだけで達成できない~
今回は、条約改正交渉についてやっていきます。自由民権派が政府を攻撃する材料となったのは、早期国会開設・地租軽減以外に外交失策もありました。特に条約改正交渉の失敗は、大きな怒りを買うことになったのです。
カネよりも大事なものがある
岩倉使節団が条約改正に失敗した後、外務卿寺島宗則が条約改正交渉に当たります。1878年(明治11年)、政府が財政難だったこともあり、まずは税権の回復を目指しアメリカと交渉します。岩倉の時もそうでしたが、アメリカは意外と乗り気で同意を得ることに成功します。しかし、イギリスとドイツに反対されてしまいます。日米和親条約の条項のひとつ、片務的最恵国待遇があるため、イギリスとドイツが反対したことでアメリカとの交渉もおじゃんになってしまいました。最恵国待遇を復習しておくと、例えば日本がアメリカにお小遣いをあげることになったとして、アメリカは「1000円でいいよ」と言ってくれたとしても、イギリスとドイツに「俺たちは2000円欲しい」と言われて2000円あげるとアメリカにも2000円あげないといけないというルールです。ちなみに片務的なのでアメリカがイギリスとドイツには2000円、日本には1000円でも大丈夫なのです。
また、この頃に日本にアヘンが密輸されたり、コレラ菌が流行していたので外国船に検疫を要求するも無視されたりする事件が起こるのですが、領事裁判権によって無罪判決が下されるなど、税権回復よりも領事裁判権撤廃が優先事項だと、税権を優先している政府に批判が殺到するようになります。こうした流れから、まずは領事裁判権撤廃の方を重視した交渉が行われるようになっていくのです。
いくら着飾っても猿は猿
次に条約改正に挑んだのは外務卿(内閣制度導入後は外務大臣)井上馨でした。井上は寺島の失敗を踏まえて、1882年(明治15年)に各国の代表を東京に集めて予備交渉会議を開き、1886年(明治19年)から正式交渉を開始します。個別に交渉すると最恵国待遇が邪魔になるので、一度に各国と交渉してしまおうと考えたのです。また、井上は交渉を成功させるために極端な欧化政策を取ります。その象徴が鹿鳴館です。英国人コンドルによって設計され、莫大な予算がつぎ込まれて建設された鹿鳴館では、連日のように舞踏会やバザーが開催されました。「我々の国もこんなに近代化が進んでますよ」というアピールだったわけですが、見せ掛けだけの近代化は諸外国に笑われることになり、国内でも「何やってんだ」とかなり批判が集まりました。それでも井上は、領事裁判権の撤廃と税権の一部回復を引き出します。ただし、外国人判事を任用すること・2年以内にイギリス流の法制度を制定すること・外国人に内地を開放し、営業活動や旅行、居住の自由を認めることという条件付でした。このような改正案に農商務大臣谷干城が大反対し、大臣を辞任してしまったり、フランス人法律顧問ボアソナードも日本にとって不利な条件であると断言されてしまいます。また、政府内部だけでなく民間からの批判も殺到します。
そんな中、1886年(明治19年)10月にノルマントン号事件が起こります。和歌山沖でノルマントン号が沈没した際に英国人船長以下白人26名は全員救命ボートで救出されるも、日本人は25名全員が溺死したのです。政府は、英国人船長を領事裁判にかけられますが、「助けようとしたけど言葉が通じなかった」と言って、無罪となったのです。この判決に日本国民は激怒し、政府は控訴することになり、船長に禁固3ヶ月の判決が下るのですが、賠償金が支払われることはありませんでした。こんな状況の中、三大事件建白書が提出されることになり、井上は外務大臣を辞任せざるを得なくなります。
3者の連携ミス
辞任した井上の後任として今度は大隈重信が伊藤内閣の外務大臣に登用されました。大隈の登用は自由民権派の分裂を企図するのと同時に、「弱腰外交」と批判された井上に対して、大隈はキリスト教禁教でイギリスと揉めた際に「強硬外交」で乗り切った実績があり、国民からの人気も高かったことも影響しています。この直後、伊藤博文は憲法草案に集中するために内閣総理大臣を辞任し、黒田清隆内閣となりますが、大隈は留任します。そして、大隈の方は条約改正に集中し、お互いに口を出さないという関係になります。しかし、結果的にこれが致命的な連携ミスを引き起こしてしまいます。
大隈は、井上が行った集団交渉を止めて、各国と個別に交渉します。集団交渉だとなかなか自分から譲歩する国がなく、なかなか交渉が進まなかったからです。大隈は、各国の利害関係を利用しながら個別に交渉を進めていき、外国人判事任用は大審院に限るという条件で領事裁判権撤廃や関税の一部回復、最恵国待遇の見直しなどをロシア・ドイツ・アメリカから引き出します。しかし、1889年(明治22年)にこの改正案の内容が英国新聞『タイムズ』誌に掲載されると、それが日本国民の耳にも入ります。また、この時には憲法が完成し、発布されていたのですが、外国人判事任用は憲法に違反していたのです。伊藤と大隈がお互いに口出ししないと決めたことから起こった連携ミスです。この大隈の改正案は憲法違反だとして批判を浴びることになり、政府内でもゴチャゴチャします。多くの閣僚は大隈の条約改正交渉を中止するように求めましたが、黒田と大隈は断行すべきだと譲りません。
そうやって政府内でゴチャゴチャしている時に事件が起こります。大隈の改正案に反対する右翼結社である玄洋社の青年に爆弾を投げつけられた大隈が片脚を切断しなければならないほどの重症を負い、これ以上の交渉が不可能となります。黒田内閣は総辞職し、結局条約改正は失敗に終わったのです。
もうちょっとだったのに余計なことを
次に条約改正に当たったのが青木周蔵外相です。青木は、ずっと改正に反対してきたイギリスに狙いを定めました。「イギリスさえなんとかすれば残りは何とかなるだろ」と考えたのです。ちょうどこの頃、ロシアが南下政策の一環として極東進出を図る「シベリア鉄道」の建設が始まっていました。イギリスは、元来ロシアの南下政策を警戒しており、極東進出で清国の権益を脅かされることを危惧していたため、日本との協力に関心を持ち始めていました。そういった背景もあり、難色を示しながらもイギリスは条約改正交渉に応じたのです。
そうして、イギリスとの条約改正が目前となったときに事件が起こります。ウラジオストクのシベリア鉄道起工式に出席する途中、「シベリア鉄道を建設する意味わかる?」と圧力をかける意味で日本に立ち寄ったロシア皇太子ニコライ(後のニコライ2世)が1891年(明治24年)5月、滋賀県大津市で警備をしていたはずの巡査津田三蔵に斬りつけられるという大津事件です。これに政府だけでなく日本中が「これはとんでもない国際問題になるぞ!ロシアが報復してくるに違いない!」と恐れおののきました。なんとかロシアを宥めるために、明治天皇が自らニコライ皇太子を見舞ったり、青木外相を引責辞任させたりしました。これによって、またしても条約改正は失敗に終わるのです。また、事件を起こした津田三蔵を死刑に処そうとするのですが、ニコライは軽症を負っただけなので、現行の刑法では死刑にはできません。そこで政府は皇室に対する罪である大逆罪を適用しようと大審院に圧力をかけます。しかし、大審院長児嶋惟謙は「大逆罪は日本の皇室に適用されるものなので政府の言ってることは法の拡大解釈だ」として認めず、無期懲役の判決を下しました。政府は「これはやばいぞ!」と慌てましたが、国際世論は逆に「日本ってちゃんと司法が独立してるんだね」と児嶋の判決を賞賛したのです。また、ニコライ皇太子の方も「猿に噛まれたからって猿を皆殺しにするような真似はしない」と穏便な対応をしたこともあり、事なきを得たのです。こうして、世界に日本が司法の独立を守ったことを示し、後の条約改正交渉が有利な方向へ転がったのです。まぁ下手したら国が滅んでいたかもしれなかったわけですが。
舞踏会を開催しても、礼儀作法は知らないし、ダンスもできない。
井上の鹿鳴館外交は、外国人にとって爆笑ものでした。
しかし、陸奥宗光の妻・陸奥亮子や岩倉具視の娘・戸田極子は「鹿鳴館の華」と呼ばれ、見た目の美しさだけでなく、教養もあり、外国人から好評を得たそうです。
ただ、戸田は伊藤博文との不倫スキャンダルを報じられ、国内の鹿鳴館外交に対するバッシングを加熱させることになります。
実際には伊藤に一方的に言い寄られていただけみたいですけどね。
次回は、伊藤博文らが立憲政治の実現に向けて、どのような働きをしたのかを見ていきます。大日本帝国憲法は、単にドイツ憲法を真似て書き写したわけではなかったのです。