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自己暴露的あまりにも私小説的。Girl in redの体験談型音楽。

文:田渕竜也


中毒と依存症とでは意味が違うように、鬱と憂鬱は違う。

憂鬱は「なんとなく気が沈んでいる」という一刹那的。鬱とは何もできない状態の慢性的なことを言う。
一時的か慢性的かの違いというって全く似て非なるものであって同じではない。だからツイッターなんかで「鬱だわー」とか薬の種類を書いているあたりそれは鬱ではなくそれは憂鬱なのである。
一番やばいのは何もないボーっとした世界に入ってしまって何もしなくなった時。一日中排泄すらも面倒になる、そんなの状態。

中毒と依存症も同じことが言える。

中毒とはまだ仮にその中毒がアルコールだとするとその毒性が体に現れている状態のことを言う。
だからまだ体はちゃんとしている。二日酔いでも飲む気がしない。それならまだ大丈夫だ。これは「あしたが嫌だなー」って言う憂鬱と同じ。
そしてそのアルコールによる毒性が自分の意思でやめられなくなり、慢性的な状態となればこれは依存症だ。
二日酔いだろうがなんだろうが関係がなくなった場合、もしくはシラフの世界ではなく酔いの世界が正とした状態のことをアルコール依存症という。
これは生きる気力がない状態、「鬱」と同じような状態だ。

上記のことから中毒と憂鬱、依存症と鬱はともに根本は同じことなのである。

補足すると鬱は人工的に作ることができる。光を遮断した円柱を顔に被せてそのままにしておくだけでいい。なんでもずっとこのままなのだろうと勝手に脳みそが悟るらしい。
ドストエフスキーによれば墓穴をほっては埋めての繰り返しで発狂に至るという。これをニーチェはこのような同じことの繰り返しを「永劫回帰」と言って、死よりも絶望的な状態として断言をしている。
つまりはこの悟った状態というのが一番の最悪なのである。

最悪な状態。

そんな時ってどうします?
巷の噂ではチーズや乳製品なんかをとってセロトニンなんかを増やすといいらしいですけどね。
あとは太陽の光に浴びるとか。
昔、そこかの誰かに聞いた話によればケツ穴に太陽の光を浴びせると気力が上がるなんて話を聞いたことがある。まぁ普通に考えれば太陽に向かってケツ穴をさらけ出す時点で元気を通り越して「躁」だけどね。
それはそれでまた別の病気であり依存症だ。聞くところによると活発すぎる躁の状態が行動としては危険みたいですけどね。

そんなわけでやっと本題です。
最近めちゃくちゃ衝撃を受けたんですがこのSerotoninという曲をご存知でしょうか?

北欧シューゲイザーとかポストロックのエッセンスと低音強めのビートがのっていてめちゃくちゃかっこいい。

なんとなく思うけど近頃はクラブとかフェスとかフィジカルな場が消えていた結果、パーティ志向の音楽というよりもベッドルームで聞く音楽が増えてきたと思う昨今であります。
そこにはウイルスによる騒動の影響もありますが、決定的にパーティの現場をぶち壊した震源地はビリーアイリッシュの登場だったと思います。
今作はそのビリー・アイリッシュの兄であるフィニアス・オコネルが携わったということでも話題にもなっていますね。

この曲、内面を赤裸々に曝け出す私小説的と言いますかまぁリリックの和訳サイトでも見ておいてくれ。多分どこかに落ちてあると思います。

憂鬱や暗さを歌にする人ってたくさんいる。僕が死んだらとか悲しみの果てがどうとか。
「セロトニンが下がってきた、どうかなってしまうかもしれない」。
この一節でここまでリアルで克明に具体的に最悪の状態を表せる詩ってまぁあまり存在しない。
つまりはこの自己暴露は「経験者」にしか作れないのである。

そう、Girl in redは「経験者」なのだ。「不安」と「自分自身の内面における恐れ」こんなものは経験したものにしか表現できない。客観性よりも内面描写が主だ。

実際問題、「内面性における不安」って多分、この世界において一番、自分自身が恐れている部分だと思うんですよ。自分の中の狂気性というか。

例えばめちゃくちゃ楽しく談笑していても、何故かこの場をめちゃくちゃにして暴れ回りたいとか思ったりしないですか?
何と無く不意に自分が狂人的な思考になっている時とかって。
この世界における道徳とか倫理による理性でなんとかコントロールはできているけど、いつかこのコントロールが壊れてしまうんじゃないかっていう不安感。

おそらくだけどこの理性の完全崩壊こそが現代の人間における「恐れ」であって、この部分は誰にも見せられない部分だと思うんですよ。この思考ってあまりにもグロテスクだから。

だからグロテスクな「恐れ」表現するに、ここにおどろおどろしい形にするとこれはあまりにも陳腐なわけであって、四流ブラックメタルなんかになってしまうわけである。
だからこそ現代的なビートと自己暴露的とういうのはかなり画期的。

そこで思ったのが、これに近いのはこれじゃないかと思んですよ。

自分の内面を赤裸々に曝け出すというのはグランジの文法というよりもNIRVANAの文法であって、案外、パーソナルの内面をテーマにした音楽ってCoccoぐらいしか思いつかないんですが誰かいますか?いましたらぜひ、フリーペーパーてんぷらのTwitterDMにでも送ってください。

自己暴露という形って共鳴を得るのが難しい。だって全部体験者の体験談なわけで、「頭の中に友達がいるんだ」なんていっても多分、ほとんどの人が危険因子と判断するだろうと思う。

だから共鳴性、例えば憂鬱とか鬱の状態って意外と伝わりにくかったりするんじゃないかと。

例えば社会に対して怒りをぶつけたり、今いるその場の状況、愛だとかそんなのによる怯えって割といろんな人が経験している状態だと思うんですよ。だからそういうのって簡単に共鳴を得られる。
このような簡単な共鳴性って人を救いそうでできない。それはあまりにも表面的だからだ。

音楽とか詩による救いってもっと内面じゃないかなって。
それは「ひょっとしたら自分だけ?」ていう妙な内面における不安に寄り添ったときにできるのではないだろうか。
なんでも全員を救うことなんてできないわけで、キリストだってキリスト教の信者しか救わないし、ユダヤ教なら厳しい戒律を守る人たちしか救わない。
まぁ何が言いたいかっていうと不安とか内面性をテーマにしたとき全員をくくりに入れるとものすごくチープになる。
だからもっと深い共鳴ってやっぱり病的な部分。依存だったり鬱だったり。

だからとにかくGirl in redの「経験」ぜひ聞いてほしいと思うのです。今回はそんな話です。

現場からは以上です。それでは。

田渕竜也のTwitter

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