第35回もう一度まなぶ日本近代史~立憲政治調査、憲法は条文だけ見てもアカンのや!~
政府は、「ほとんどテロ」みたいになった自由民権運動を抑えながらも立憲政治の実現を目指して頑張っていました。しばらく面白くない話が続きますが、大事なところなのでお許し願いたいところです。
真似するだけじゃダメなんや!
1882~1883年(明治15~16年)、伊藤博文は西園寺公望や伊東巳代治ら随員を伴い、欧州へ立憲政治調査に向かいました。よく憲法調査などと言われますが、憲法だけでなくその運用も含めた立憲政治を勉強しに行っきました。伊藤らはドイツのベルリン大学でグナイストやモッセ、オーストリアのウィーン大学ではシュタインの講義を聴き、「憲法はその国の歴史・伝統・文化に基づいて作るもの」であることを学びます。現在、歴史・文化・伝統の勉強もしないで条文ばかり気にする改憲論者がいますが、そういう連中はクソということです。
よく大日本帝国憲法は君主権の強いドイツ流だと言われますが、フランスやアメリカは共和制(王様がいない)憲法なので日本とは合いませんし、イギリスは条文がないので真似のしようがないので、ドイツが一番合っていたわけです。しかし、ドイツ憲法をそのまま取り入れたわけではなく、各国のいい部分は参考にして、自国に合った憲法を作ったのです。
帰国した伊藤は、宮中に制度取調局(後の内閣法制局)を設置し、その局長に就任しました。制度取調局とは、新たに法案などを出すとき、事前に憲法や現在ある法律と照らし合わせて問題ないかどうかを審査する機関です。ここにダメと言われたら新しく法律を作れないわけですからかなり強い機関と言えます。伊藤は、ここで憲法制定・国会開設のための制度設計を行いました。また、伊藤は宮内卿(内閣制度導入後は宮内大臣)も兼任するのですが、これについては後で説明することにします。
バカに政治は任せられない
1884年(明治17年)、華族令が公布されます。華族は公・侯・伯・子・男の5爵に分けられ、爵位が与えられました。また、同時に明治維新に貢献した人物にも爵位が与えられています。さらに1887年(明治20年)には、自由民権派のトップや有力な旧幕臣にも爵位が与えられました。これにはどういう狙いがあったのかというと、それまで選挙なんて行われていなかったわけですから、無知な国民が変な奴を当選させて国を動かすようになってしまう可能性があるわけです。そこで選挙なんか行わないで優秀な人たちで構成される上院(貴族院)を設置するための下準備をしたのです。「貴族院なんて全然民主的じゃない!」という意見はわかりますが、いきなり急激な民主化を進めたら衆愚政治になりかねないわけです。自由民権派の一部を見ていたらいかにヤバいかわかると思います。
ちなみに爵位を与えられる人っていうのは、家柄のいい人・大金持ち・めちゃくちゃ頭がいい人・社会に貢献した人です。上手くいけば家柄が悪くても華族になれる可能性があるというのは地味にすごいことではあるんですけどね。近い将来、この貴族院を復活させたら面白いかもしれません。但し、エリート層への徹底した愛国教育は必須ですが。
いろいろと考えられたシステムなのです
1885年(明治18年)12月、太政官制が廃止され、内閣制度が導入されました。太政官制では太政大臣・左右大臣・参議が国政の協議をするのですが、実際に政治を行うのは各省長官(卿)です。また、各省長官は参議が兼任することがほとんどでした。しかし、天皇に対して責任を負うのは太政大臣・左右大臣という仕組みで、各省長官は大きな権限を持っていたのにも関わらず、責任の所在が明らかではなかったわけです。また、この頃は岩倉具視が亡くなったことで太政大臣・左右大臣にリーダーシップのある人材がいなくなり、統制が取れなくなっていたという問題もありました。内閣制度の導入は、これらの問題を解決する狙いもあったのです。
内閣制度では、各省長官は国務大臣となり、国政の協議に直接参加するようになる代わり、天皇に対して責任を負うことになります。そして、新たに置かれた内閣総理大臣がそれを統轄するのです。これによって、行政府が強化・簡素化され、それに伴い責任の所在も明らかにされたというわけです。
この頃の内閣制度は、現在のものと異なる点があるので、混同しないように注意しましょう。内閣総理大臣は、天皇によって任命される点は同じですが、元老の話し合いによって指名されます。国会が開設された後も衆議院の与党第一党の党首が指名されるというようなシステムではありません。こうなると、変な奴が内閣総理大臣になってしまう可能性があるからです。ちなみに元老というのは、明治維新に貢献した人物に与えられる特権階級で、政府の最高首脳として国家の意思決定に関わることができます。伊藤博文・山県有朋・井上馨・黒田清隆・松方正義らが元老です。ただ、いつまでもこのような決め方をしたわけではなく、元老が慣習を作ることで徐々に現在のような形に移行していきます。他にもこの頃の内閣総理大臣は、各国務大臣の罷免権を持っていません。辞めさせたい大臣がいる場合は、辞任してもらうか内閣総辞職するしかありませんでした。内閣総理大臣の任命責任が非常に重かったのです。内閣総理大臣が強すぎると、変な奴が内閣総理大臣になった時に大変なことになるので、そこら辺の配慮もあるわけです。
また、内閣制度の導入によって、常に天皇の側近として補佐する(常侍輔弼)、内大臣を置きました。三条実美が内大臣に就任するわけですが、はっきり言って仕事のない名誉職で、三条さんに第一線から退いてもらったというわけです。また、宮内省を内閣の外に置き、宮中・府中(内閣)の別を明らかにし、宮中を政治から切り離しました。神聖不可侵である天皇を政治に関わらせてはいけないということです。伊藤博文が宮内大臣を兼任したのは、宮中と府中が交わらないように監視するためだったのです。この他、皇室が議会の制約を受けないように、1885年(明治18年)から1890年(明治23年)までに広大な土地や莫大な有価証券を皇室財産としました。
超豪華メンバー!第1次伊藤内閣
内閣制度が導入された話をしたところで、日本初の内閣を見ていきたいと思います。総理大臣は誰でも知ってると思いますが、その他の閣僚も歴史をかじったことがある方ならほとんど知っているのではないかというほどの豪華メンバーです。現在でもこれぐらいのメンバーが揃えられたらいいのですが・・・
内閣総理大臣 伊藤博文 長州
三条実美も初代内閣総理大臣に推されていたのですが、英語力が決め手となり、伊藤が選ばれました。
外務大臣 井上馨 長州
国際情勢に明るく、渋沢栄一ら財界との関わりが深い重要人物です。
内務大臣 山県有朋 長州
陸軍・官僚機構を押さえて、政府内で大きな権力を保持しています。
大蔵大臣 松方正義 薩摩
地租改正や日本銀行設立などに関わり、7度も大蔵大臣を務めた大蔵畑の人物です。
陸軍大臣 大山巌 薩摩
西郷隆盛の従弟で、日本初の元帥となります。
海軍大臣 西郷従道 薩摩
西郷隆盛の実弟で、海軍では日本初の元帥となります。
司法大臣 山田顕義 長州
諸法典の編纂に尽力、日本大学の創設者でもあります。
文部大臣 森有礼 薩摩
混迷を極めていた学校教育制度を確立させますが、英語の国語化を提唱するなどかなり変わった人物と見られていました。
農商務大臣 谷干城 土佐
政府とも自由民権派とも異なる独自の思想の持ち主でガチガチの保守、怒りの辞任が得意技です。
逓信大臣 榎本武揚 旧幕臣
黒田清隆とは固い友情で結ばれており、優秀なことから旧幕臣でありながらもちょくちょく入閣します。
10名のうち長州出身が4名、薩摩出身が4名ということで、反対派からは薩長藩閥内閣と批判されることになるわけですが、これだけのメンバーを揃えたことは評価すべきでしょう。特に能力もない人間が大臣になるという悲劇あるいは喜劇を知っている現代の人々は。
立憲政治調査の中でグナイストに「日本が憲法を持つなんて100年早い」みたいなことを言われた伊藤博文。
この屈辱が忘れられず、伊藤はメチャクチャ頑張ります。
また、シュタインに感銘を受けたらしく、「欧州に勉強しに行くならシュタイン先生のところに行け!グナイストはアカン!」と言ってます。
女好きだったことをネタにされがちですが、日本では誰もやったことのないことを主導する初代マニアとして、いろいろと本当によく働きました。
次回は、伊藤らが猛勉強の末にようやく完成させた大日本帝国憲法を見ていきたいと思います。「帝国憲法ってトンデモなんでしょ?」っていう印象をお持ちの方も多いと思いますが、実は当時としてはとても先進的なものだったのです。