第36回もう一度まなぶ日本近代史~遂に完成!大日本帝国憲法~

文:なかむら ひろし

 欧州から帰国した伊藤博文は立憲政治への下準備として、華族令や内閣制度の導入などを行いました。そして、1886年(明治19年)から本格的に憲法作成が始まりました。

極秘!憲法草案

 まず、井上毅がドイツ人法律顧問ロエスレルやモッセの助言を受けながら、憲法草案を完成します。その草案を元に伊藤博文・井上毅・金子堅太郎・伊東巳代治らによって、夏島(神奈川県横須賀市にある島でしたが現在は埋め立てられて陸続きになっています)にある伊藤の別荘で議論され、草案がまとめられます。この草案は、夏島でまとめられたことから夏島草案と呼ばれます。この時に草案が入ったスーツケースが盗まれ、「自由民権派の仕業に違いない!」と言っていたのですが、結局盗まれたスーツケースが見付かり、現金だけがなくなっていたことから「なんだ、ただの盗人だったか」なんていうエピソードが残っています。
 そして、1888年(明治21年)に伊藤博文は枢密院を設置し、内閣総理大臣を辞して枢密院議長となります。枢密院は天皇の諮問機関で、憲法・条約・重要法案の審議などを行います。この枢密院で憲法草案が審議され、1889年(明治22年)2月11日に大日本帝国憲法が発布されました。ちなみに2月11日は、紀元節と呼ばれ、初代天皇である神武天皇が即位した日とされており、現在も建国記念の日として、国民の祝日となっています。

実はめちゃくちゃ先進的

 次に大日本帝国憲法の中身を見ていきましょう。条文は全76条と日本国憲法よりも短いので、一度目を通してみるのもいいかもしれません。

・欽定憲法
天皇が国民に与えた憲法という意味です。
天皇は、自ら与えたこの憲法を守り続けることを誓っています。

・天皇主権
実は、帝国憲法内に主権という言葉はありません。
天皇に統治権はありましたが、あくまで憲法の範囲内でしか行動できません。

・天皇は神聖不可侵
天皇は、政治に直接関与しません。

・天皇に統帥権
統帥権とは、軍隊の最高指揮権のことです。
統帥権は陸海軍の補佐によって行使され、政府や議会は介入できません。

・国民の義務
国民は、納税・兵役・教育の義務を負います。
この時代に「兵役なんてけしからん!」なんて言っていたら一瞬で滅びます。

・国民の権利
法律の範囲内で様々な権利が認められています。(法律の留保)
言論・集会・結社・居住・移転・信教の自由や所有権の不可侵、法律によらない逮捕・監禁の禁止など。

・国会
天皇の協賛(同意)機関として、実質的な立法権を持ちます。
衆議院に予算議定権があり、衆議院は強い拒否権を持ちます。
前項と合わせると、国民の権利を制限する法案を衆議院が拒否できることになります。

・内閣
天皇の輔弼(助言)機関として、実質的な行政権を持ちます。
内閣は、天皇に責任を負うだけでなく、議会にも責任を負う必要があります。
議会を無視した政治を行うことは不可能です。

・裁判所
司法権は、天皇の名において行使されます。
と言っても、大津事件でやったようにきちんと司法権は独立しています。

 教科書などでよく取り上げられる部分をピックアップしてみました。実は細かいことは憲法に書かれていないのですが、このように運用されていきます。憲法というのは、条文だけ見ていてもあまり意味がなく、その運用こそが重要だったりするのです。
 また、この帝国憲法は、外国人学者たちから国民に大きな権利と自由を与えすぎていると批判されています。つまり先進的すぎて政府は絶対苦しむことになると言われたのです。実際、その通りだったのですが、伊藤たちは「有色人種に立憲政治なんて無理無理w」とバカにされていると思い、必死に耐えていくことになります。アジアでは、オスマン帝国が初めて立憲政治を実現しながら、1年余りで憲法を停止するということがあったのです。
 帝国憲法が先進的すぎると言われた大きな要因は、衆議院に予算議定権を与えたことです。つまり衆議院の賛成を得られないと予算が通らないのです。政府は、予算が通らなければ何もできません。一応、予算不成立の場合は前年度の予算を適用するという規定を設けましたが・・・衆議院に予算議定権を与えたことでどうなったのかは「初期議会」でお送りすることにしましょう。

憲法だけあっても無意味

 現在、日本国憲法以外にも刑法・刑事訴訟法・民法・民事訴訟法・商法という所謂「六法」があったり、憲法附属法があります。憲法は、ふんわりしたことだけしか書かれていないので、具体的な法律が必要なのです。例えば、憲法に「行政権は内閣に属する」と書かれていても「内閣って何だよ」って話になります。内閣について詳しく書かれた内閣法があって始めて機能するのです。この内閣法が憲法附属法にあたります。
 政府は憲法だけでなく、様々な法律も同時に作り始めています。まずは、憲法附属法を見てみましょう。

・皇室典範
帝国憲法と同日に制定された憲法附属法です。
皇位継承・摂政の制などが書かれています。
幕府・摂政・関白は王政復古の大号令で廃止されましたが、摂政のみ復活しました。
ちなみに皇室典範は「国民に知らせたところで関係ないよね」ってことで、公布されていません。

・衆議院議院選挙法
選挙権は、直接国税(地租・所得税など)25円以上を納める満25歳以上(被選挙権は30歳以上)の男子にのみ与えられています。
1890年(明治23年)に行われた第1回総選挙の有権者は全人口の1.1%で、その多くが地主・豪農でした。
ちなみに欧米先進国でも制限選挙は普通で、日本だけが特に厳しいというよりも初回から1.1%も参政できるなんてむしろ先進的だったりします。

 次に刑法や民法といった諸法典も見ていきましょう。これらは、フランス人顧問ボアソナードが大きく関わっています。
 まず、1880年(明治13年)に刑法・治罪法(刑事訴訟法)が制定されました。この時期にできた犯罪として有名なのが大逆罪です。大逆罪は天皇・皇族へ危害を加えた(または加えようとした)場合、死刑というものです。後に大逆事件を扱うので、頭の片隅にでも置いておいてください。
 次に1890年(明治23年)に民法の一部が公布されましたが、フランス流の自由主義的な内容であったため、日本古来の家族制度を破壊するものだとして、反対する者が現れました。中でも穂積八束は「民法出でて忠孝滅ぶ」と強く反対しました。一方、梅謙次郎は新民法に賛同しており、所謂「民法典論争」が起こりました。結局、民法案は改められ、1896~98年(明治29~31年)にかけて公布されました。この改正民法は、戸主・長男の権限が強く、儒教的道徳観の強いものでした。
 また、商法も1890年(明治23年)に公布されましたが、民法と同じく当時の商慣習と合わないとして修正が加えられ、1899年(明治32年)まで先延ばしされました。そのほか、民事訴訟法や刑事訴訟法も制定され、刑法もドイツ流のものに改められたりしています。

自由党の支持基盤って・・・

 内務大臣山県有朋は、ドイツ人顧問モッセの助言を受けて、国会開設に先立ち、地方制度改革を行いました。まず1888年(明治21年)に市制・町村制、次に1890年(明治23年)に府県制・郡制が公布されました。「以前やった地方三新法と何が違うの?」っていう話ですが、地方自治体の首長を政府系の人事で固め、その監督下に置き、地方自治権を制限したのです。さらに地方議員選挙も有力者に有利なシステムにしたのですが、これは批判が高まり、後に廃止されました。
 何故このようなことをしたかというと、板垣退助ら自由党の支持基盤が地方の有力者だったということがあります。どうせ国会が開設されると自由党などの政党と揉めるのは明白でしたから、このような人々を取り込んでおくことが必要だったわけです。

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めちゃくちゃ頭がいい最強官僚の井上毅。
大日本帝国憲法、皇室典範、次回やる教育勅語などを起草しました。
帝国憲法の出来の良さは、自由民権派も黙らせました。(中江兆民以外は)
ちなみに名前が同じ漢字の犬養は「つよし」ですが、井上は「こわし」と読みます。
まぁ、試験で読み方なんて問われませんが、一応。

 次回は、今回書き切れなった軍制と教育をやった後で、初期議会を見ていくことにします。やっと国会が開設されますが、政府はやっぱり自由民権派に苦しめられることになります。

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