第39回もう一度まなぶ日本近代史~遂に決着!?日清戦争~
甲申事変により朝鮮での影響力を失ってしまった日本は、どうやって朝鮮を独立・近代化させるか悩んでいました。しかも、国内では自由民権派が強硬論を唱え、少しでも譲歩しようものなら内閣は潰されてしまうという不安定な状況です。
影響力を失い、ジリ貧の日本
その頃、朝鮮では閔妃政権による搾取と日本の経済進出による物価高騰で貧民層が苦しんでおり、1889年(明治22年)に朝鮮は防穀令を出し、日本への米・大豆などの穀物の輸出を禁止しました。殖産興業によって商工業が発達してきた日本は、穀物を欲しがっており、朝鮮の方も高く買ってくれる日本に輸出するというのは自然な話です。しかし、それによって朝鮮国内で穀物の価格が急騰してしまい、この年は凶作も重なったことで貧民層の不満が爆発しました。そこで朝鮮政府も動いたわけです。日本国内でも「しょうがないよね」という意見がほとんどだったわけですが、貿易によって利益を得ていた商人はこれに猛反発します。商人を怒らせると、都市部のインテリや商工業者を支持母体とする立憲改進党が政府に文句を言ってくるのです。議会を無視できない日本は、清国を仲介に朝鮮と交渉し、防穀令の中止と日本に賠償金を支払うことで解決しました。
日本は、国力でも海軍力でも上である清国との衝突を避けていました。清国と天津条約を結んだり、防穀令事件で清国に仲介してもらったのもこのためです。しかし、独立党が一掃され、朝鮮での影響力を失った日本はジリ貧でした。このような外交政策では、清国との即時開戦を訴える自由民権派が許すはずもありません。
日清が再び対峙
1894年(明治27年)5月、朝鮮で東学党の乱(甲午農民戦争)が勃発します。東学とは、西学(キリスト教カトリック)に対抗する形で生まれた儒教・仏教などが混在した民族主義的な新興宗教です。その東学党が中心になって、農民たちが減税と排日を訴える反乱を起こしたのです。
朝鮮政府は、自分たちで反乱を鎮圧できなかったので、清国に出兵を要請します。清国は同年6月に朝鮮に出兵し、日本も済物浦条約を根拠(公使館の警備と居留民保護を名目)に出兵しました。反乱は、日清両国の出兵もあって収まったのですが、日清両国は朝鮮から撤兵するように言われても拒否します。朝鮮問題に関してジリ貧で、国内の強硬論を無視して、何もできないまま撤兵することができない日本は「このままで朝鮮問題の根本的な解決は見込めない!日清共同で朝鮮の改革を行うべきだ!」と清国に訴えますが、清国はこれを拒否し、両国とも朝鮮から撤兵せず、睨み合いが続くことになりました。
どさくさに紛れて条約改正
この頃、第2次伊藤博文内閣に外務大臣として入閣していた陸奥宗光が条約改正交渉に当たっていました。陸奥は、駐英大使青木周蔵と連携してイギリスとの交渉に絞ります。青木の時と同様、一番反対しているイギリスさえ説得できれば、他国もこれに続くだろうと考えたのです。しかし、イギリスは「法整備もまだまだだし無理」と条約改正に反対します。それに対して陸奥は「法整備は5年以内になんとかするんで改正条約にサインして」と言います。法整備を十分に行っても、また難癖をつけて反対されると思ったので、施行は先になっても、今すぐに改正条約は結ぶという作戦に出たわけです。
しかし、日本国内で陸奥の改正案に反対する声が上がりました。陸奥の改正案は、最恵国待遇を相互に認め、領事裁判権を撤廃するものでしたが、関税自主権に関しては一部回復に留まりました。また、陸奥は条約改正には内地雑居を認める必要があると言いました。内地雑居とは、国内での外国人の旅行・居住・経済活動の自由を認めるということです。もう一度言いますが、立憲改進党の支持母体は都市部のインテリ・商工業者です。外国人が国内で自由に商売をすると、打撃を受けるのは商工業者です。立憲改進党は、自由党の一部やその他の保守政党と結び付いて「対外硬六派」(略して硬六派と呼ばれます)を結成し、完全に対等な条約改正以外は認めないという条約励行運動を起こして、政府を攻撃します。
イギリスは「おたくの国の議会は条約改正案に反対しているそうじゃないですか。やっぱり条約改正は無理だね」と言ってきたので、このチャンスを逃がさないために第五議会で衆議院が解散されることになりました。しかし、続く総選挙でも民党が勝ち、第六議会では内閣不信任の上奏が行われました。こんな状況の中で、東学党の乱が起こったのです。ピンチに陥った陸奥は、強引に条約改正を進めることにします。なんとイギリスに「我々は、これから清国と戦争になるかもしれません。でも、あなた方が日本人を未開人だと言って、条約改正を認めないなら、戦争になっても、国際法に則って日本や清国にいるイギリス人の保護なんてする必要ないですよね?」と脅したのです。イギリスの方もシベリア鉄道を建設し、朝鮮と接近し始めたロシアの南下政策に警戒し、清国に朝鮮の単独管理を進めてきたものの、清国との交渉が決裂していた事実もあったことから、もう日本と組むしかありませんでした。そこで、イギリスは「条約改正後も函館港を使わせて欲しい」という条件を出し、陸奥もそれを認めたため、1894年(明治27年)7月、遂に改正条約である日英通商航海条約が締結されました。この条約により、最恵国待遇を相互に認める・領事裁判権の撤廃・関税自主権の一部回復などが認められました。この後、不平等条約を結んだ各国とも同じ内容の条約改正が行われます。
解散総選挙をしながら清国と戦う日本
一方、内閣不信任の上奏が行われた政府は、もう一度勝ち目のない解散総選挙を行うか、内閣総辞職するしか道はありませんでした。伊藤は、解散総選挙を選択するのですが、その直後に事態は急変します。陸奥が条約改正交渉を成功させ、イギリスがこちらにつき、ロシアがこれ以上この問題に介入しないと分かると、朝鮮問題に終止符を打つべく、強行手段に出ることになります。朝鮮王宮を占領し、大院君を担ぎ出して、傀儡政権を作ったのです。そして、朝鮮政府に「清国が撤兵要求に応じないのなら、日本に頼んで排除してもらう」と言わせました。清国がこれに応じるはずもなく、豊島沖海戦が起こり、両国共に宣戦布告がなされました。日清戦争の勃発です。無茶苦茶な話です。後年、陸奥も「あれはやり過ぎた」と反省しつつ、「あれしか方法はなかったんや!」と弁明しています。
日本はこれまで自分よりも国力のある清国との武力衝突を避けてきたのに、ここに来て戦争を挑んだのはもちろん勝算があったからです。実は、日清戦争といっても日本が戦ったのは李鴻章の軍閥です。清国は国内が統制されておらず、バラバラです。李鴻章が日本と戦争をしていても他の軍閥は他人事ぐらいにしか思っていません。それに対して日本は、清国との開戦が決まると、それまで政府に反対していた自由民権派も一斉に政府を支持しました。莫大な軍事費も戦争関連法案が全会一致で可決されたのです。つまり、国民国家として目覚めた日本は、数の上では上回っていようがまったく統制のとれていないバラバラの清国には勝てると踏んだのです。
日本の戦略としては、言っても国力のある清国が相手ですから戦争が長期化することは避け、適当に痛めつけたところで、できるだけ早く講和に持ち込むというのが理想です。各戦闘に関しては省きますが、日本は連戦連勝で、清国に対して「これ以上やっても同じだよ」と講和を持ちかけます。李鴻章がこれに応じて下関にやってくるのですが、この時も日本はバンバン軍艦を発進させて、心を折ろうとしています。講和というものは、戦争以上に戦争です。そして、いよいよ講和会議が開かれるのですが、それはまた次回ということにしましょう。
欧米との不平等条約改正に成功した陸奥宗光。
幕末時代、海援隊に参加するなど坂本龍馬の子分として働きました。
また、西南戦争が起こったとき、政府転覆を企んでいると疑われ、刑務所に入れられたりもしています。
その後、農商務大臣や外務大臣として活躍しますが、「カミソリ大臣」とあだ名されたように「優秀だけど使い方によってはこっちも怪我をする」という、なかなか難しい人だったようです。
それだけに伊藤博文とのコンビは、最高だったということでしょう。
彼の記した『蹇々録』にこの時期のことが詳しく書かれているので、興味のある方は一度読んでみてはいかがでしょうか。
次回は、日清戦争後の講和条約である下関条約から見ていきます。これで朝鮮問題は解決!かに見えましたが・・・