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もしかして広告って現代人のストレスの根源になっていない?

文:田渕竜也


あたりを見回すとどこを見てもこの世界は広告だらけだ。
外へ出ればどこかの病院の看板、知らない誰かから配られるビラ、聞こえてくるのは政治思想を押し付ける街頭演説、電車の中の吊り広告。

どこもかしこも見渡せば”広告メディア”というものがある。
そこにはどこかの商品や会社の名前が書いてあって、それが頭に情報として入ってくる。
こうやってメディアそのものについて考えてみると街中、眼に映る全てが広告なのではないかと思ったりするのだ。
例えばアディダスの3本のストライプだって、自販機のコカコーラのロゴなんかも広告である。
ある意味、広告メディアの量が多い=都会という考え方もできるのではないかと。
だって何にもない山奥にはそういったビラやデカイ看板もないし…。人が集まるからこそ注目度があって広告が集まる。
だから都会という広告メディアベースな街設計が現代人のストレスにもなっているとも思うんですよ。
目障りだと思いませんか?だって知りたくもないような情報まで頭に入ってくるわけだから。

なんとなく暇つぶしに見ているYoutubeなんかでも無料で使えているように見えるけど、
じつはこの急に飛び込んでくる15秒のCMが突然飛び込んでくる。
これのおかげで僕らはほぼ無料に近い感覚で動画を見られるわけだけど、
この無料だと思い込んでいる動画視聴料金を自分の15秒という寿命を等価交換に考えれば、
くそほどにもくだらない映像を見て人生を消費している。

そう思うと腹立ちませんか?
この目障りなCMっていうやつが。
なんであんなしょうもない替え歌を聞かされて見せんだよって。

それに広告って卑怯なんですよ。不快感だけを残して記憶に残れば勝ちみたいなところがあって。
だからこそBPOという審議の機関はあるけど、こと人権に関わることだけなので、この”不快感”というストレスには審議ができていない。

だからこの不快感というストレスを受けている身としては当然文句を言ってもいいんですよ。ことクオリティの低いCMに関しては。
クオリティが低いとはどういうことかというと、ここでは注目度だけしか感覚がないCMのこと。
例えばテキトーに誰でも知っている楽曲を無理に歌詞を当てはめたり、有名人ありきだったり、不快な音をつかったりだとかなど。

だから今回はそんなあまりにもレベルの低すぎるCM一連にバッカもーんと喝を入れていこうと思う次第であります。
自己弁護をしておくと僕個人としてはここ数年のCMがクソすぎるから言おうと思っただけなのでCM自体は好きなわけですよ。
その趣旨だけは先に述べさせていただきます。
それでは参ります。

腹が立つCMについて記憶に残ってしまうのが替え歌である。

テレビをつけても、ネットの中でもバイトルのCMではアルプス一万尺だし
ハッピーバースデーの曲なんかは別々の求人情報サイトで思いっきりかぶっていたし。
そんな童謡や少し前ぐらいの流行歌に早口で強引に字余りな替え歌には毎度毎度
「あぁー、また流れやがったなこの野郎」と本気で虫酸が走る。
まぁ、嫌いなものに悪態を吐きつけるぐらいなら無関心でいるのが解決方法だろうと思う。

たしかにそうだ。そっと目を閉じて耳を塞いで都会から離れて…。
そんなことができるわけないだろーが。
少なくともテレビやラジオ、インターネットが繋がっている限りそれらは流れていくのである。
実社会で五体満足で生きていく上では広告というものからは逃れられないはずなんですよ。
インターネットを開けばいや顔でもどこかのバナー、動画バナーが入ってくるんですし。

まぁとにかくに替え歌CMに関してはしばらくは残像としてそのCMが頭に残ってしまうからこそたちが悪い。
何回も擦り倒されるハッピーバースデーには本気で嫌悪してしまっている。

このような替え歌CMになぜ嫌悪を抱いてしまうのか?
おそらく”知っている”ということが一つキーポイントになるのではないかと思う。
例えば同じ曲を何回も聞いていたらだんだんうざくなってきますよね。
はじめはいい曲だなと思っていても永劫的に音楽がループされればさすがに絶望を覚える。
うざいという心理の動きにはまず”知っている”ということから始まる。
ドストエフスキーの話で墓穴を掘っては埋めてを繰り返すと発狂する話があった。
これと同じで知っていることの繰り返しって最終的には「またこれか」って絶望してしまうわけなんですよ。
ほら、飲み会で「こいつこの話5回目だよ」なんてことありませんか?あれが絶望なんですよ。
だから替え歌と童謡、過去の歌謡曲のカバーなんかはその繰り返しという中の絶望的な心理行動で嫌悪を抱いてくるのだろうなと。

だけど見てしまった側の問題としてこの”うざい”という感覚のせいで正直、その商品の名前を覚えてしまうことが結構ある。
それは制作側も頭いい人たちを抱えてやっているわけだからそれも狙いだろうし
既存の再利用だから作家費も安く抑えられるからマジでコスパのいいCM制作になっている。

覚えてもらってなんぼ

これがクソCMの正体なわけで、「不快感を残したもの勝ち」が宣伝というものの全てである。
だから今後、広告の制作予算が下がれば下がるほど、不快感の多いCMは多くなってくるだろうと思う。
まぁ制作側も反響がないと商品側から怒られるし、ハリボテでもいいから数字は取らないといけない。
だからますます既存の作品を流用したクソCMはこれからも増えて、現代人のストレスの種になっていくんだろうなと…。

まぁ今回はこの辺で
それでは。

田渕竜也のTwitter

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