/ Column

路上で何か表現するならせめて都市のモードに合わせようぜ

文:田渕竜也

都会のど真ん中、仕事に疲れ切った人たちは今日も夜の街を歩く。
そして向かうところは「平穏」という安住の地がある自宅へ足は向かっている。
考えていることは明日はどうとか、また同じような日常が待っていることなど様々な一物の不安を抱いている。
この社会に生きる人たちはそれぞれ「日常」を生きることが精一杯だ。
そして未来永劫、この疲れ切った都会の日常という絶望的景色がこれからもずっと続くのかと思いがよぎると背筋がゾッとするだろうと思う。
そんなわけで日々を生きるハードワーカーたちはまさにサバイバーなのである。

そしたらどうでしょうか?
改札近くの少し広い踊り場みたいなところがどうにも騒がしい。
右からも左からも音の所在はバラバラだ。そして乱雑な弾き方をするギターのコードストローク、そして夢や希望を歌う声が聞こえくる。
前方からはCD音源をバックに高らかに歌い上げるカラオケが鳴り響き、後方からは謎のバイオリンの音が…。
全てがばらばらである。音も様式もなにもかもが不協和音。ここは一体なんだ?発狂させるための空間か?
永劫的日常に疲れ切ったハードワーカーたちに向けて無神経な奴らは今日も元気になにかをやっている。
それも自分がこの世界における主人公でも言いたいかのように高らかに声を響かせるのだ。

かき鳴らされる音。それはある種、人間としての生存本能なのかもしれない。「自分がここにいる存在認識してほしい」そんな想いでもあるのだろうかと。
そんな「認知してくれ」とアコギをかき鳴らす路上ライバーたちからは「頑張れ」なんてメッセージを送られてくる。
いや待ってくれ売れてない奴らになんで励まされなあかんねん。逆にお前がちゃんと人として頑張れだよ。世間は十分頑張ってるよ。これ以上、人を頑張らせるな。
そもそもでいえば疲れ切った街中の人間の耳からすれば突き刺さってくるそれらの音や歌声はもはや爆竹の音や狂人の唸り声とも対して変わらない。
だから音楽としての認知がなければただの騒音であって不協和音である。

ところでなぜ街中の路上ライバーはこんなにもうるさく聞こえるのか?

そんなことって思いませんか?
ライブ会場に行くと思うのだけどあれなんかはうるさいはずなのに、心地よかったりする。
ここに起因するのは音楽を受け取る意味と都市におけるモード(様式)を間違えているからなんだろうなと。

例えば他人が勧めてくる音楽やイヤホンから漏れてくる音楽に鬱陶しいと思った経験はないだろうか?
それは音楽を構成する「音」というものを原理的に説明すれば空気の振動である。
そしてこの振動が波形で表現され振れ幅と繰り返しの多さが周波数となり音程となり音階となる。
だから鳴らされている音階に対して「自分にとって何か?」という明確な答えがないとものすごく不快感になるのだ。
それは耳の中にある鼓膜が振動しているから。

もうすこしわかりやく言えば言語というものがある。
何語かわからない言葉でペラペラ喋られても、それは受け手がコミュニケーション取れないわけだから
そのしゃべり手の言語に無知では言語として成立しない。何かを発声している騒音であってうるさいだけだ。
それを街という大きな括りの場合、不特定多数のその鳴らされている音を聞く目的でない人がほとんどである。
そうなれば音楽ではなく騒音である。つまりこの路上ミュージシャンという形態が街の騒音製造機へと化けてしまっているのだ。
これが存在証明のために路上でやる音楽自体が受け取り手無視の無意味な認知行動になっているのではないかと思う。

そしてライバーたちはなぜ路上を選ぶのか?
答えは簡単でライブ会場を抑えるのが面倒だしお金がかかるからなんだろうと思う。
確かに集客もノルマ代もバカにならない。だけど考えて欲しい。
その程度で躓くなら路上でも同じことではないか。
そもそもでいえば路上ライブなんてアウェイだ。観客ほぼゼロのライブハウスならまだPAとかスタッフ数人はある程度は聞いてくれるだろう。
だけど夜の都会で人々が「おっ、いい曲やってるね」って立ち止まり体育座りして聞いてくれると思いますか?
反論もあるだろうと思う。
「路上でやること自体が目的」「売れるんじゃなくて初めから存在証明がしたい」
まぁ大きく上げるなら上記のことだろうかと。
ただ、これらに言えることは誰も必要としていないのに社会認知のためにやるライバーたちの行動は迷惑系のそれらと相違しないのではないかっていうこと。
例えば、都会のど真ん中で大音量で中島みゆきを歌われても鬱陶しいし、変な地下アイドルみたいな電波系な音楽を流されてもきついじゃないですか。
だからせめてその都会のフィールドにあったモード(様式)に合わせようぜって思うんですよ。
そしたらもう少しはマシになるかと。

いろいろ言ってみたけど結局は立ち止まって聞いてくれている人がいて、
おひねりを入れてくれる人がいるならそれで路上芸術として成立している。
それはちゃんと誰かの心を動かしているし、誰かに感動を与えているから。
長くなりましたがこれが結論です。

田渕竜也のTwitter

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