第40回もう一度まなぶ日本近代史~なぜドイツが?!下関条約と三国干渉~
東学党の乱をきっかけに日清両国が朝鮮に軍隊を派遣、ここで日清が衝突し、遂に日清戦争が勃発します。清国の勝利に終わるという大方の予想を覆し、日本は陸に海に連戦連勝で講和に持ち込むのです。
完璧な交渉?
日本軍は、朝鮮半島から清国軍を一掃し、黄海海戦で北洋艦隊を撃破すると、清国の遼東半島なども制圧しました。こうして日本が圧倒的に優位に戦争を進め、清国に対して講和を勧めます。1895年(明治28年)4月、遂に日本全権伊藤博文首相・陸奥宗光外相と清国全権李鴻章との間で講和会議が行われることになりました。ここで調印されたのが下関条約(馬関条約)です。下関条約の内容は以下のようなものです。
1.朝鮮の独立国の承認
これが日本の戦争目的ですので、ひとまず戦争目的は達成されたことになります。
2.台湾・澎湖諸島・遼東半島の割譲
場所は地図で確認してみてください。これで中国大陸の沿岸部を押さえたことになります。
3.賠償金2億両の支払い
日本円に換算すると約3億円です。次回やりますが、金額だけではなく、この賠償金を元に何をしたかも重要です。
4.沙市・重慶・蘇州・杭州の開市・開港と片務的最恵国待遇の承認
この4都市はかなり重要な港です。日本で言うと横浜や神戸を開港させたようなイメージでいいでしょう。また翌年、最恵国待遇により、日清通商航海条約が結ばれ、欧米列強と対等の扱いを受けることになり、清国に多くの日本商人が移るようになります。
日本にとって、ほぼパーフェクトという感じですが、実は李鴻章が下関で日本人に銃撃され、負傷するというテロ事件が起こっていて、列強の批判を回避するために講和会議で若干譲歩するはめになっています。こういうことをすると逆に国益を損ねることがわからない人間って今も昔もいるものです。ただ、かなり有利な講和が行われたのは事実です。
なんでや!ドイツ関係ないやろ!
下関条約が結ばれた直後、ロシア・フランス・ドイツの三国が「遼東半島まで獲るのはやり過ぎ!極東平和のためにも返還すべきだ!」という、所謂「三国干渉」が起こります。どこの国と戦っても勝てない日本は、これに応じることになりますが、ちゃっかり賠償金を3000万両(約4700万円)増額しています。国内では三国干渉に怒り、今は耐えて後に見返してやろうという言葉「臥薪嘗胆」が流行語となりました。
日本政府は、ロシアが南下政策により南満洲に進出しようとしていることはわかっていたので、ロシアが干渉してくることは織り込み済みでした。フランスに関してもロシアの同盟国ですから仕方ないでしょう。ただ、腑に落ちないのはドイツです。実はドイツこそが日本にとって本当にウザいことをしてくれていたのです。
ドイツは、フランスやオーストリアに勝利し、追い出したことで統一されています。そのため、フランスとは非常に仲が悪かったのです。さらにロシアともバルカン半島進出を巡って、ゴチャゴチャしていました。地図を見たらわかると思いますが、ドイツはフランスとロシアに挟まれていますから非常に危険な状態です。そこでドイツは、ロシアの関心を極東に向けることでこのピンチを打開しようとしたのです。しかも、清国に恩を売って、アジア進出の足がかりにしようとも考えていました。本当に迷惑な話です。また、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、日清戦争以前から『黄禍論(イエローペリル)』を唱えています。これは「黄色人種に権力を与えると白色人種は酷い目に遭いますよ」というものです。何としてでも日本をエサにしたかったわけです。ただ、後にこのドイツの野望も日本によって打ち砕かれることになるわけですが。
どうしようもない朝鮮
日清戦争に勝利した日本は、朝鮮を独立させることに成功しましたが、そう簡単に物事は上手く進みません。日清戦争の直前に大院君政権を樹立しましたが、元々外国嫌いの大院君は政権に返り咲くや否や開化派(主に親日派)の弾圧を行います。さらに日清戦争の最中に清国と通じて日本軍を王宮から追い出そうとしました。日本は、さすがに大院君をそのままにしておくのは危険だということで、取り除いてしまいます。
大院君が失脚した後、再び閔妃政権となりますが、三国干渉に日本が屈すると、「やっぱり日本弱いじゃん」ということでロシアに接近します。日本としては、やっとの思いで朝鮮を独立させたのに、これじゃあ振り出しに戻るどころかマイナスです。そこで起こったのが乙未事変です。失脚した大院君はまだまだ諦めておらず、閔妃を暗殺して政権に返り咲こうと画策します。これに乗っかったのが三浦梧楼公使でした。三浦は、大院君に協力して王宮を襲撃、閔妃を暗殺してしまったのです。しかし、そのまま大院君に政権を握らせるのは危険ということで、幽閉してしまいます。 大院君はその後、政治に絡むことなく病死しています。一方、三浦は閔妃暗殺に関与したことで投獄されますが、「政府が日清戦争直前にやったことと同じことをしただけです」と弁明したことで、政府はぐうの音も出ず、嫌疑不十分として釈放しています。
さらにどうしようもない国王
大院君と閔妃という二大派閥のトップが消えたことで、政権を握ったのは国王の高宗でした。忘れている方もいるかもしれないので、もう一度言いますが、高宗は大院君の息子で閔妃の夫で、それまでは何もしないで勝った派閥の言うことを聞くだけのイエスマンだった人です。
大院君と閔妃がいなくなって今度は国王自身がなんとかしなければなりません。ただ、両派閥自体がなくなったわけではありません。どちらかに味方すると、もう一方から命を狙われる危険があります。そこで高宗は何をしたかというと、ロシア公使館に逃げ込み、そこで親政を行うことを宣言したのです。「露館播遷」なんて呼ばれますが、事実上、ロシアの属国になったということです。1年後、王宮にもどった高宗は皇帝を名乗り、国名を「大韓帝国」に改めました。とんだ帝国です。
これで日本は、振り出しに戻ったどころかマイナスになったことが確定しました。なんたって清国よりも遥かに強いロシアを相手にしなければならなくなったわけですから。
大韓帝国(笑)初代皇帝(爆笑)の高宗。
ここまで恥ずかしい真似をした人は、世界史上なかなかいません。
激しい派閥闘争の末、優秀な人間が周りにいなかったことは同情しますが。
この後も日本に嫌がらせをしてきますが、ことごとく失敗に終わります。
次回は、日清戦争後の日本について見ていきたいと思います。ついにあの男が内閣総理大臣に就任しますが・・・