第41回もう一度まなぶ日本近代史~空中分解する隈板内閣~

文:なかむら ひろし

 しばらく外交を中心に見ていきましたが、今回は日清戦争後の国内政治を見ていくことにしましょう。日清開戦によって民党の支持を受けていた第2次伊藤博文内閣でしたが、三国干渉によって状況が変わってきます。

仲が悪い自由党と立憲改進党

 日清戦争以前から伊藤博文や陸奥宗光は、政党との協力なしに議会を運営することは困難であるということから民党に妥協することも必要だと考えていました。陸奥と親しい関係にあった自由党の有力者である星亨の方も政府に反対するだけでは自らの政策を実現することは難しいと考えており、両者は次第に接近していくことになります。
 その後、日清開戦により、政府は民党の支持を受け、戦後も自由党と提携していくことを公言するにまで至ります。しかし、直後に起こった三国干渉や露館播遷などにより、再び民党は政府を攻撃し始めました。そこで、伊藤は自由党の板垣退助を内務大臣として入閣させ、自由党を事実上与党化することで共同歩調を取ろうとします。さらに立憲改進党が対外硬を掲げる少数政党と合併、進歩党を結成して政府批判を続けたため、大隈重信を外務大臣として入閣させることで沈静化を図ります。しかし、元から立憲改進党が嫌いな自由党やこれ以上政党に調子を乗らせたくない山県有朋がこれに猛反発したことから、伊藤はこれ以上の政権運営は無理だと総辞職しました。

今度は進歩党と組みますが

 第2次伊藤内閣が倒れた後、松方正義が内閣総理大臣となりますが、第1次政権の時に選挙大干渉などを行ったこともあり、松方は民党から嫌われています。そこで、松方は進歩党と提携することにしました。大隈重信を外務大臣として入閣させ、官僚機構にも進歩党の人間をねじ込むことで組閣に成功したのです。このことから第2次松方内閣は、松隈内閣と呼ばれます。
 この内閣では、日清戦争で得た賠償金で正貨を準備することで、1897(明治30年)に貨幣法が制定され、金本位制が実施されています。これで松方の悲願が達成されたわけです。また、賠償金によって八幡製鉄所の着工も開始されました。一方、その見返りに進歩党の要求する新聞紙条例の改正も行われ、言論統制が緩和されることになりました。
 ここまでは、なんとなく上手くいっている感じだったのですが、政府がロシアに備えて軍拡するために「地租増徴」を提案したことで両者に亀裂が生じます。松方は議会を解散するも、今後の方策を見出すことができず、選挙が行われる前に総辞職してしまいました。ちなみにこんなことをしたのは、今までで松方ただ1人です。

遂に政権を手にした民党でしたが・・・

 松方が辞職すると再び、伊藤博文が内閣総理大臣となります。またかよ!という感じですが、伊藤はあと1回やることになることを先に言っておきましょう。「地租増徴」は、民党にとって一番許せないこと(「地租軽減」を謳わなければなかなか選挙で勝てない)だったので、伊藤は民党からの協力は望めません。さらに選挙は、自由党と進歩党の圧勝に終わり、当然政権運営は厳しく、僅か3ヶ月で議会を解散することになります。すると、政府にとって恐ろしいことが起こってしまいます。なんとあれだけいがみ合っていた自由党と進歩党が合併し、憲政党を結成してしまったのです。しかも、選挙は憲政党が圧勝し、伊藤は自ら政党を結成して対抗しようとするも、山県有朋に反対され、何もできずに総辞職に追い込まれてしまいました。
 このような状況で次の内閣総理大臣を引き受けてくれる元勲は誰もいません。伊藤は「もう大隈か板垣にやらせるしかないよね」と言うのですが、元勲たちは「危険すぎる!」と猛反発します。しかし、伊藤に「だったらあなたがやってください」と言われるものですから認めるしかありません。こうして、大隈重信が内閣総理大臣、板垣退助が内務大臣という「日本初の政党内閣」が誕生しました。この内閣は「隈板内閣」と呼ばれます。ちなみに後に誕生する原敬内閣は「日本初の本格的政党内閣」と言われます。何が違うのかというと、原がちゃんと選挙で当選した衆議院議員だったのに対し、大隈は爵位を持っていて衆議院議員になる資格がなかったというぐらいの認識で大丈夫でしょう。
 皆さんは、もう隈板内閣の成れの果てを予想できているのではないでしょうか?タイトルでネタバレしているという話ではありますが、何度も言っている通り、自由党と進歩党は仲が悪いのです。自派から1人でも多く要職に就けようと組閣の段階で揉めています。さらに大隈が外務大臣も兼ねることになったのですが、駐米公使だった旧自由党の星亨が「俺に外務大臣をやらせろ」と言って勝手に帰国してきた挙句、拒否されるという事件も起こっています。さらに文部大臣となった旧進歩党の尾崎行雄が金権政治を批判して「日本が共和制になったら三井や三菱が大統領になるだろう」という所謂「共和演説」を行いました。すると「天皇制を否定する不敬行為だ!」という言葉狩りとしか思えない大バッシングが始まってしまいます。すると、星は「尾崎を追い出して旧自由党から文部大臣を出そうぜ」と更なる燃料を投下します。結局、尾崎は辞任するのですが、後任を勝手に旧進歩党の犬養毅にしたため、旧自由党は激怒します。こうして、旧自由党系の憲政党(党名を踏襲)と旧進歩党の憲政本党に分裂してしまい、大隈内閣は総辞職することになりました。民主党かよ!という突っ込みを入れたくなりますね。

政党なんか大嫌いや!

 隈板内閣が半年も経たない内に潰れた後、山県有朋が内閣総理大臣となります。山県は政党嫌いでしたが、議会運営には政党の協力が必要だということは理解していましたから、憲政党(旧自由党)と連携することにしました。政党からひとりも入閣はさせませんでしたが、政策を妥協することで提携が実現したのです。
 まず、1898年(明治31年)に地租増徴案を通して、地租率を地価の2.5%から3.3%にアップします。続いて1899年(明治32年)には文官任用令を改正します。それまで、政府の意向で官僚を任用することができたのですが、試験にパスした人を官僚にしようというのが文官任用令です。ただ、すべてが資格任用になったわけではなく、一部自由任用が残っていたので、この改正で資格任用の範囲が拡がりました。隈板内閣時に多くの政党員が官僚に入り込んできたため、政党員が官僚になることを難しくしたのです。さらに1900年(明治33年)には、軍部大臣現役武官制を出しました。軍部大臣(陸海軍大臣)は、現役の大将・中将しかなれないというものです。予備役の軍人が政党と結び付いていたため、軍部の協力なしに組閣できないようにしたのです。これは後々かなり重要になるので覚えておいてください。
 また、1900年(明治33年)には衆議院選挙法の改正も行われています。選挙権は直接国税10円以上納入に引き下げられ、有権者は倍増しました。さらに被選挙権は納税額による制限がなくなり、投票も匿名投票になりました。しかし、改正の直前に治安警察法も制定され、高まりつつあった労働運動の取り締まりの強化も行っています。後の普通選挙法の時も治安維持法がセットで制定されているので、選挙法改正は「飴と鞭」という感じで覚えるといいかと思います。
 こんな感じで山県はやりたい放題、裏切られた憲政党は提携を打ち切ってしまいます。そのため、山県は議会運営が困難となり、総辞職します。政党に嫌がらせができて、してやったりの山県でしたが、恐れていたことが起こってしまいます。山県に裏切られた憲政党は伊藤博文に接近し、伊藤をトップとする立憲政友会が結成されてしまったのです。星亨ら旧自由党系を中心に伊藤系官僚、先ほど出てきた旧進歩党の尾崎行雄なんかも参加しています。山県は伊藤を次の総理に推薦し、早い段階で潰してしまおうと考えました。
 第4次伊藤内閣は衆議院を押さえ、何もかも思い通りになるはずでした。しかし、山県が貴族院を使って邪魔をしたり、急造の政党故に思った以上にまとまりがなく、閣内不一致であっという間に倒閣してしまいます。この後、伊藤や山県らは第一線から退き、伊藤の後継者である西園寺公望と山県の後継者である桂太郎が交互に政権を担当する桂園時代へと移行していきます。

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政党嫌いの山県有朋は、メチャクチャ慎重な人物でした。
陸軍を掌握していましたが、安易に対外戦争に走らないためのストッパーとなっていたと言われています。
好戦的な政党を嫌ったのは、このためだとか。
山県が亡くなった後、所謂「軍部の独走」が始まります。
どうでもいい話ですが、彼の写真が某戦場カメラマンに似ていると話題になったこともありました。

 次回は、日清戦争後の中国大陸を見ていきましょう。三国干渉で極東平和とか言っていた国がどんどん清国を分割していきます。

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