第42回もう一度まなぶ日本近代史~日英同盟、ロシアの圧力を跳ね返せるか?!~

文:なかむら ひろし

 日清戦争後、政府と政党が協調するようになったかと思えばまた揉めて、遂には政府内でも伊藤博文と山県有朋が対立するというカオス状態になっていたのですが、国際情勢は待ってくれません。じわじわとロシアが南下してきたのです。

ロシアの大勝利

 それまで、アジア一の大国で本気を出したら強い「眠れる獅子」と言われていた清国でしたが、小国日本ごときに敗れ、「ただの豚」だったことがバレてしまいました。列強は、ここぞとばかりに清国に進出していきます。
 1898年(明治31年)、ドイツが山東半島の膠州湾、イギリスが威海衛・九竜、フランスが広州湾をそれぞれ租借しました。租借とは、相手国の了承を得て借りることなのですが、香港やマカオが返還されたのがつい最近の話ということから分かるようにほとんど割譲、いわば借りパクみたいなものです。そして、ロシアはなんと三国干渉で返還させられた遼東半島の旅順・大連を租借しています。日本が血を流して一度は手にした要所をお金を払うだけで手に入れたのですからさすがとしか言えません。ロシアは、軍事力はもとより外交力が本当に優れているのです。ちなみに清国は、一方的な侵略を受けたというより、日本への賠償金を支払うために列強から多額の借金をしていたので、こうするしかなかったという部分があります。
 一方、新興国のアメリカは中国大陸進出に大きく出遅れており、ジョン・ヘイ国務長官が清国に対して門戸開放・機会均等・領土保全を訴えました。簡単に言うと、後からノコノコやってきて「お前らだけで中国大陸の利権を貪るなんて不公平だ!」という負け犬の遠吠えです。もちろん、列強には無視されましたとさ。

タイマンで負けたのにバカなんですか?

 次々と列強に侵入されていくことになった清国でしたが、国内で「さすがにこのままではマズイ」という声が上がりました。光緒帝の下で康有為・梁啓超らが立憲政治を取り入れて、国内を改革していこうという「変法自強の運動」が展開されます。しかし、西太后ら保守派がクーデターを起こして、改革派が一掃されてしまいます。戊戌の政変です。
 こうした状況で清国の民衆が不満を持たないはずがありません。そこで立ち上がったのが義和団です。義和団とは、「義和拳という拳法を使う格闘技団体」兼「秘密結社」のような組織で、「扶清滅洋」(白人をぶち殺して清国を助けよう)をスローガンに排外運動を起こしたのです。義和団は民衆から支持を集め、この義和団の乱は華北一帯に広がっていきました。
 1900年(明治33年)、ドイツ公使や日本公使館書記生が殺害され、列強の公使館が次々と包囲されていきました。ここで清国政府は、義和団の乱を鎮圧するどころか乗っかってしまいます。なんと列強に宣戦布告したのです。英・露・仏・独・墺・米・伊の7ヶ国は、清国に派兵することになるのですが、本国から遠くてすぐには対応できません。そこで期待されたのが日本です。日本は、どこよりも多くの兵を派遣し、鎮圧しました。翌年、北京議定書が調印され、清国は各国に賠償金を支払い、各国が清国内に戦力を置くことを認めました。これが北清事変です。ちなみに日本が兵を置いたのが盧溝橋の付近で、昭和になって・・・

大英帝国と夢のタッグ?

 北清事変の際、ロシアは満洲に派兵しましたが、事変後も撤兵せずに居座ってしまいました。事実上、満洲を占領してしまったのです。戦わずして領土をかっさらう、これぞロシアの真骨頂です。さらにロシアと清国との間に露清密約が結ばれました。「もし日本が満洲に進出してきたら共同で追い払うから満洲を軍事利用させてもらうね」という日米安保条約のような内容です。ロシアに遼東半島・満洲を奪われ、朝鮮も親露政権となってしまったものですから、日本としては大ピンチなのであります。
 日本政府は、ロシアの脅威に対してどのように対応していくか、2つの路線で進められていきました。1つ目は、伊藤博文や井上馨らが進めた日露協商論です。ちなみに協商というのは、「商」の字が使われていますが、経済は関係なく、同盟みたいに強固ではないが、仲良くやっていこうという関係です。こちらは、ロシアに「満洲に居座るのは認めるので朝鮮までは来ないでください」という満韓交換論を元に交渉を続けました。しかし、ロシアは朝鮮を掌握しているようなものですから、これを認めるというのは一方的に譲歩するようなものです。上手くはずもありませんでした。2つ目は、桂太郎首相・小村寿太郎外相らが進めた日英同盟論です。同じくロシアの南下を警戒しているイギリスと同盟を結び、共同でロシアを北へ押し戻そうとする作戦です。これは、必ずしも軍事的な衝突を意図したものではなく、あくまで交渉を有利に進めるためのものです。イギリスは、それまでどことも同盟を結ばない「栄光ある孤立」を守ってきました。大国が束になってかかってきても、勝てるだけの力があったからです。まだまだ世界最強であることには変わりはありませんでしたが、ボーア戦争でまさかの苦戦を強いられるなど徐々に弱体化の兆しを見せ、独墺伊の三国同盟や露仏同盟をひとりで相手にするには厳しい状態となっていました。そこで目をつけたのが日本でした。日本は北清事変での活躍で、イギリスに「こいつは使えるかもしれない」と思わせたのです。こうして、1902年(明治35年)に日英同盟が結ばれました。
 同盟の内容は、どちらかの国がどこかの国と戦争になった場合、もう一方の国は中立を保つが、2ヶ国以上が相手になる場合は参戦するというものでした。日本がロシアと戦争になった場合、ロシアの同盟国であるフランスが参戦すれば、イギリスは日本に手を貸すということです。ただ、日英同盟と露仏同盟がぶつかると世界大戦レベルの規模になるため、誰も望みません。つまり、フランスが出てくることだけは防いだということになります。しかし、ロシアは基本的に日本と戦うことを望んでいませんでしたが、タイマンだったらイギリスは出てこないわけですから絶対に勝てます。日本優位の交渉などできなかったのです。

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元勲たちが第一線から退いた後に首相になった桂太郎。
当時、元勲がひとりもいないことから二流内閣と言われていましたが、外務大臣として大活躍する小村寿太郎や後に首相となる山本権兵衛・寺内正毅・清浦奎吾など現在となっては豪華なメンバーが入閣しています。
桂は山県有朋の後継者でしたが、「ニコポン宰相」(ニコっと笑って肩をポンと叩く)と呼ばれる懐柔の達人で、首相在任期間は過去最長です。
また、頭が大きかったことをイジられていましたが、若い頃はジャニーズ系のイケメンだったりします。

 日英同盟を結び、ロシアの圧力を交渉で跳ね返そうとしましたが、上手くいきませんでした。次回、遂に日露戦争が勃発します。どう考えても勝てそうにない戦いでしたが・・・

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