第43回もう一度まなぶ日本近代史~日露戦争、大国に挑む日本~

文:なかむら ひろし

 一気に南下してきたロシアに対して、日本はイギリスと同盟を結んで対抗しようとしますが、交渉は上手く進みませんでした。列国から批判され、一旦は清国と満洲還付協定を結び、満洲からの撤兵を約束したロシアでしたが、そんな約束はなかったことにしただけでなく、韓国にまで進出してきたのです。

無茶を言うウヨクもおそロシア

 ロシアとの緊張が高まっていく中、あくまでも交渉でなんとかしようとする政府を弱腰だと批判する動きが国内で盛り上がります。近衛篤麿・神鞭知常・頭山満らが国民同盟会を結成し、対露強硬論を唱えたのです。国民同盟会は一旦解散するも、対外硬同志会(後に対露同志会)として復活し、開戦論を叫びました。中でも戸水寛人ら東京帝国大学七博士(実はひとりだけ学習院大学の博士がいたりする)は、バイカル湖まで占領するべきだとか無理なことを言っています。このことから戸水はバイカル博士と呼ばれるようになるのですが、伊藤博文には「なまじ知識があるバカがいちばん手に負えない」と言われちゃってます。
 国内は開戦論で盛り上がっていましたが、非戦論を訴える人たちもいました。キリスト教的人道主義者である内村鑑三や社会主義者の幸徳秋水・堺利彦は、新聞『万朝報』で非戦論を叫んでいました。しかし、『万朝報』が社論を開戦論としたことから、彼らは新聞社を辞めて独自に非戦論を訴えることになります。幸徳・堺は平民社を結成し、『平民新聞』を発行して非戦論を訴えています。また、開戦後には与謝野晶子が戦地に赴く弟の無事を祈る「君死にたまうこと勿れ」を発表して、戦争を批判しました。

大国ロシアとどうやって戦うの?

 ロシアとの交渉も上手くいかず、国内からは開戦へと突き上げられ、日本政府は最早戦うしか道がなくなってしまいます。ロシアは東西に長い国で当時の首都はサンクトペテルブルグです。戦うならロシアがシベリア鉄道を使って戦力を東に集中させる前に叩かなければなりません。戦うなら早く開戦しなければならなかったのです。しかし、大国ロシアと戦うのはどう考えても無謀です。とにかくあらゆる策を練りました。
 まず、戦争をするには莫大な費用がかかります。政府は戦費を外債で賄おうと、高橋是清日本銀行副総裁を英米に派遣し、外債を募集します。次に開戦したのはいいものの、どうやって終わらせるかが問題になります。総力戦なんてしたら確実に負けます。日本が勝つには、アジアにいるロシア軍を電撃作戦で倒し、適当なところで講和に持ち込むしかありません。そこで、金子堅太郎を特使として派遣し、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに仲介を打診しました。戦争の仲裁ができるのは大国だけです。しかし、イギリスは日本、フランスはロシアの同盟国なのでできません。独墺伊三国同盟もロシア寄りなのでダメ。そこで新興国で日本の友好国であるアメリカに白羽の矢が立ったのです。さらに明石元二郎を欧州にスパイとして派遣し、諜報活動をさせました。いろいろと策を練りましたが、泣けてくるほどの戦力差です。

東のネルソン・東郷平八郎無双

 1904年(明治37年)、遂に日本はロシアに宣戦布告します。日露戦争の始まりです。陸軍は遼陽・沙河会戦で勝利すると、多大な犠牲を払いながらもロシアの東アジアでの最大の拠点・旅順を攻略しました。旅順攻略戦を指揮したのが乃木希典で、乃木坂の名前の由来となる人物です。さらに陸軍は奉天会戦にも勝利し、ここでアメリカに和平交渉の仲介を依頼しますが、ロシアにはバルチック艦隊が残っていました。ロシアは「バルチック艦隊が合流すれば軽く逆転できる」と、和平交渉を断ったのです。
 バルチック艦隊とは、ロシア最大の艦隊です。日露戦争が始まると、その名の通りバルト海から出航しました。バルチック艦隊が向かっていることを日本も知っていたので、合流する前に戦争を終わらせたかったのです。しかし、日本軍はバルチック艦隊を迎え撃つしかありません。そこで役に立ったのが日英同盟です。バルチック艦隊は、バルト海から日本へ来るわけですから、ほとんど世界一周旅行です。その間に、十分な補給が受けられないようにイギリスが妨害してくれたのです。ヘトヘトになりながらも日本海に到着したバルチック艦隊と対峙したのが東郷平八郎率いる連合艦隊です。この日本海海戦で東郷は、バルチック艦隊をほとんど無傷でほとんど全滅させたのです。この勝利で東郷は、世界最強の提督として名を刻むことになりました。

う~ん、ポーツマス!ポーツマス

 軍事的には連戦連勝の日本でしたが、お金も武器・弾薬も底をついていたため、これ以上戦争を続けることはできませんでした。しかし、大国ロシアはまだまだ戦えます。ここで講和に持ち込めなければ日本終了です。そこで活躍したと言われているのがスパイとして送り込まれていた明石元二郎です。当時のロシアは、皇帝の専制政治が行われており、国内ではこれに反対する動きが起こっていたのです。明石は民衆を煽り、圧政に対する反対運動を激化させました。1905年(明治38年)には、護衛兵がデモ隊に発砲する「血の日曜日事件」などが起こり、各地でストライキが頻発するようになりました。そんな中、バルチック艦隊が全滅し、ロシアも遂に講和に応じることになったのです。
 講和は、アメリカのポーツマスで行われました。日本の全権は小村寿太郎外相、ロシアの全権はセルゲイ・ヴィッテです。その気になれば、戦争を継続することができるロシアとの交渉は、難航を極めました。しかし、小村は日本がこれ以上の戦争継続が不可能なことを隠し通し、1905年(明治38年)、遂にポーツマス条約を締結します。条約の内容は以下の通りです。

1)ロシアは、日本の韓国に対する指導・監督権の承認
2)旅順・大連の租借権をロシアから継承、さらに長春-旅順間の鉄道及び付属の権利を移譲
→鉄道はおまけですが、これで戦争目的は達成されました。
3)北緯50度以南の樺太(南樺太)の割譲
→ロシアとの国境がまた変更されました。これで千島列島と南樺太が日本領です。
4)沿海州とカムチャツカの漁業権の獲得
→完全におまけです。

 お気づきかと思いますが、賠償金の支払いはありません。なんとか勝利を収めたものの、死傷者が20万人を超える被害を出しているわけですから、民衆はこの条約に納得いきません。戦争継続を叫んで、政府高官の邸宅や警察署などが襲撃され、放火される日比谷焼打ち事件が起こります。小村も家を焼かれましたが、最後まで日本が戦争継続が不可能なことを外国はおろか国内の民衆にも隠し通したのです。立派な人です。

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日本海海戦で世界史上、この上もない完全な勝利を収めた東郷平八郎。
この勝利は、世界の有色人種だけでなく、当時ロシアの支配下にあったフィンランドやポーランドの人々に大きな勇気を与えました。
東郷は、トラファルガー海戦でナポレオン軍を破ったネルソン提督と並ぶ最強の提督として名を刻みました。
ちなみに若い頃の東郷もかなりイケメンだったりします。

 次回は、日露戦争後の国際関係をやっていきます。そして、日韓併合も・・・

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