第44回もう一度まなぶ日本近代史~日露戦争後の日本、遂に東アジアの大国へ~

文:なかむら ひろし

 今回は、日露戦争後の日本を見ていくことにしましょう。これまで列強に相手にもされなかった日本がいよいよ大国として認知されていくことになります。

大韓帝国終了のお知らせ

 日露戦争直前、戦争に巻き込まれたくなかった大韓帝国は局外中立を宣言しましたが、日露はこれを認めません。まぁ、日露戦争の原因が朝鮮半島にあるわけですから局外中立なんて無理な話です。1904年(明治37年)2月、韓国と第一次日韓議定書が交わされます。韓国は日本の戦争遂行に協力するという内容で、具体的には土地を借りて軍事利用させてもらうというものです。朝鮮半島をロシアに押さえられるとかなり厳しいことになるので当然でしょう。さらに戦争中の同年8月に第一次日韓協約が結ばれ、韓国は日本政府の推薦する財政顧問と外交顧問を1人ずつ採用することになりました。放っておくと簡単に裏切るので、これも仕方ありません。ポーツマス条約が結ばれ日露戦争が終結すると、日本による韓国の監督・指導が認められ、1905年(明治38年)11月に第二次日韓協約が結ばれます。これにより、日本政府は韓国の外交を監督・指導するようになります。日清戦争も日露戦争も韓国がそれぞれ清国・ロシアに媚びて日本を排斥しようとしたことから始まったわけですから、勝手な真似をされては困るわけです。この時、漢城(現在のソウル)に韓国統監府を置き、伊藤博文が初代統監になりました。
 ただ、韓国の方も黙って日本の要求を受け入れたわけではありません。皇帝の高宗は1907年(明治40年)6月、オランダのハーグで開催されていた万国平和会議に密使を送り、外交権回復を列強各国へ訴えたのです。これがハーグ密使事件です。しかし、高宗の訴えは相手にもされませんでした。これに日本政府は激怒し、高宗を退位させ、その子供である純宗を即位させました。さらに第三次日韓協約を結び、日本は韓国の内政を指導・監督、韓国の軍隊を解散させました。これにより、解散された軍隊が乙未事変後から発生していた反日武装闘争に加わり、義兵運動が激化することになりました。そんな中、「こいつらにやらせても一向に近代化が進まない!」と日本政府の中では日韓併合が計画されるようになります。伊藤博文はこれに反対していたのですが、1909年(明治42年)10月に清国のハルビンで韓国の民族運動化安重根に暗殺されてしまい、翌1910年(明治43年)8月に韓国併合条約が結ばれ、遂に韓国は日本の一部となってしまったのです。大韓帝国は滅亡し、朝鮮と改められ、首都の漢城も京城に改称されました。また、韓国統監府に代わって朝鮮総督府が置かれ、その統治が行われるようになりました。初代総督には、後に内閣総理大臣となる寺内正毅が就任しました。

併合とは何ぞや?

 現在、よく保守派と呼ばれるような人たちは「日本は韓国を植民地にしたんじゃない!併合だ!」なんて言ったりしますが、正直どっちでもいいです。植民地と言ってしまうと、欧米列強のやったような搾取=悪いことを行っていたという印象なので、併合という言葉に拘るのだと思います。この時代、強国が植民地を持つことは当たり前の話です。植民地であろうが併合であろうが、別に問題はないというわけです。
 ちなみに併合というのは、合併と同じような意味です。韓国併合というのは、韓国が日本になり、韓国人民が日本人になったのです。また、保守派がインフラを整備してやったとか教育を受けさせてやったとか、悪いことどころか良いことをしたんだみたいなことを言いますが、併合して日本の一部となったわけですから、別に善意があったというわけではなく、ただ単に日本の国益のために行っただけです。

朝鮮半島だけでなく満洲もゲット

 ポーツマス条約により、旅順・大連の租借権などをロシアから継承しました。1906年(明治39年)、関東都督府を置いて関東州を統治することになりました。ちなみに関東というのは、万里の長城の東側という意味で、満洲を指します。この後、少し先の話になりますが、1919年(大正8年)に関東都督府は廃止され、行政を担当する関東庁と軍事を担当する関東軍に分かれます。関東軍というワードは、昭和になってから出てくるので、頭の片隅に置いておいて下さい。
 また、1906年(明治39年)には半官半民の南満洲鉄道株式会社(満鉄)が設立されています。鉄道経営以外にも沿線の鉱山経営も行い、満洲における日本最大の権益となります。こちらも昭和になって再び登場するので覚えておいて下さい。

これだけ獲得しても干渉されないの?

 日清戦争では三国干渉が行われましたが、日露戦争後に獲得した権益は取り上げられることはありませんでした。きちんと根回しができていたからです。
 イギリスとは1905年(明治38年)に日英同盟の改訂を行っています。日本がイギリスのインドにおける権益を認める代わりに、イギリスは日本の韓国における権益を認めました。また、期間が10年に延長され、攻守同盟へと変更されました。攻守同盟というのは、タイマンであっても要請があれば参戦するというより強固な同盟です。
 続いてロシアとは、1907年(明治40年)に日露協約を結びます。ロシアは、東アジアでの南下政策を捨て、再びバルカン半島に目を向けたことで、日露の関係は良化したのです。日露協約によって、ロシアの北満洲、日本の南満洲における権益を認め合いました。日露協約は計4回にわたって結ばれ、ロシア崩壊まで続きます。
 このように日露戦争で獲得した権益は、英露に認められたので、第3国から干渉されることもなく、先のハーグ密使事件でも高宗は相手にされなかったのです。
 また、イギリスはフランスと英仏協商、ロシアと英露協商を結び、日露戦争をきっかけに、これまでいがみ合っていた大国同士の関係が良化し、露仏同盟と合わせて三国協商が完成しました。これで一転してピンチに陥ったのがドイツです。これが第一次世界大戦の原因のひとつになっていきます。

これまで仲が良かったのに・・・

 ここまでは完璧な日本でしたが、最友好国であったアメリカとの関係が悪化してしまいます。中国大陸に勢力を伸ばしたいアメリカは、ロシアが大陸に入り込みすぎることを警戒して、日本を支援していました。戦後、日本が南満洲を獲得すると、日露戦争でお金がない日本に鉄道の共同経営を持ちかけます。そして、アメリカの鉄道王ハリマンと桂太郎首相の間で、鉄道共同経営に関する桂・ハリマン協定が結ばれる予定でした。しかし、小村寿太郎外相がこれに猛反対したことで話はご破算になります。さらに門戸開放を求めるアメリカは、1909年(明治42年)に国務長官ノックスが満洲における列国の鉄道権益を清国に返還して、アメリカを含む列国による共同管理を求めますが、当然日本もロシアも反対します。こうして、アメリカの対日感情は悪化していきました。
 また、日露戦争の頃からアメリカでは日本人移民の排斥運動が起こっていました。低賃金でも一生懸命に働く日本人に仕事が奪われたり、キリスト教徒では日本人移民は日曜日も休まずに働くなど、文化摩擦も生じていたのです。サンフランシスコでは、日本人の子供が公立小学校に通うことを禁止される日本人学童隔離問題が起こったり、日本人移民の土地所有を禁止される法律が制定されたりしました。
 この後、タフト大統領は所謂「ドル外交」で大陸進出を図り、日本と対立を深めます。「ドル外交」とは、セオドア・ルーズベルト前大統領が進めた武力を背景にした「棍棒外交」を捨て、「多額の資金提供をしてあげるから言うことを聞きな」というお金にものを言わせて威張り散らすというものです。
 しかし、このような反日へと傾いてきたアメリカともちゃんと交渉を行っています。1905年(明治38年)には桂・タフト協定を結び、日本はフィリピンに手を出さない代わりに、韓国への指導・監督を認めさせました。さらに1908年(明治41年)に高平・ルート協定を結び、アメリカのフィリピンにおける権益とハワイ併合を認める代わりに、日本の南満洲における権益と韓国併合を認めさせています。

完全な条約改正に成功

 1911年(明治44年)、改正条約(陸奥宗光が結んだ条約)が満期を迎えたことで、小村外相は不平等条約の完全改正に向けて交渉を開始しました。この頃の日本は日露戦争に勝利し、アジアの大国として認知されていたこともあり、どの国も条約改正に反対することはありませんでした。こうして、関税自主権も完全に回復し、悲願であった不平等条約の完全な改正が叶ったのです。

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低い身長とその容貌から「鼠公使」とあだ名された小村寿太郎。
数々の偉業を成し遂げていながらも、ハリマン事件が日米開戦へ繋がったとして評価されないことも多い悲しい人物だったりします。
この時点での判断としては別段おかしくはないですし、後の人たちがいろいろやらかしているだけだと思うのは私だけではないことを祈ります。
そして、「低い身長・鼠・ポーツマス」というワードで芸人の猫ひろしを思い出してしまうのも私だけではないことを祈ります。

 次回は、久々に国内政治を見ていきます。桂園時代とは一体どんな時代だったのでしょうか。

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