第45回もう一度まなぶ日本近代史~桂園時代、情意投合で政権は安定?~
今回は、日露戦争前後の国内政治を見ていきます。ロシアと協調路線を歩むことになり、対外的には安定するわけですが、国内ではいろいろあるわけであります。
桂と西園寺は情意投合の関係
第4次伊藤博文内閣が倒れた後、それまで政府を主導してきた伊藤や山県ら元勲たちは第一線から退き、世代交代していきます。しかし、元勲たちは元老となり、重要な国務に対して助言(という名の口出し)をしたり、次の首相の推薦を行うなど、いわば「影の支配者」として君臨することにはなります。そして、彼らの推薦を受けて首相候補となったのが桂太郎と西園寺公望でした。この時期、首相候補がこの2人しかおらず、交互に政権を担当したことから桂園時代と呼ばれます。
桂のバックには、陸軍や官僚、貴族院が付いています。一方、西園寺は当時の衆議院第一党である立憲政友会の総裁を務め、衆議院を押さえていました。伊藤の後を受けて組閣した桂でしたが、権限としては衆議院を押さえている西園寺よりも弱いです。そこで、桂はひたすら根回しを行い、立憲政友会と協調していくことになります。西園寺が「我々と桂は情意投合の関係になる」と演説したことから、桂と西園寺の協調は「情意投合」と呼ばれるのですが、わざわざこのようなことを口に出さなければならないといことは・・・後はわかりますよね。
鉄道オタクの金権政治
第1次桂内閣は日英同盟を結び、日露戦争に勝利するという偉業を成し遂げたわけですが、ポーツマス条約の内容に民衆が大暴れ、日比谷焼打ち事件などを起こし、倒閣してしまいます。次いで第1次西園寺内閣が成立すると、陸軍は「やっぱりロシアは怖いし、韓国や満洲を守るために予算をくれ」と露仏同盟を仮想敵として、17個師団を25個師団に増強することを求めます。一方、海軍も陸軍にばかり予算を持っていかれては困るので「関係が悪化しつつあるアメリカに対抗しなければならないから予算をくれ」とアメリカを仮想敵として、戦艦・巡洋艦各8隻を中心とする艦隊(八・八艦隊)の建設を求めます。この頃から官僚による予算の取り合いというものが起こるようになってきたのです。(この頃は、アメリカやロシアと本気で戦う気などなかったのですが、後にまとめて相手にすることになるとは・・・)
それでは、陸軍と海軍のどちらが予算を手に入れたかというと、どちらも予算を付けてもらえませんでした。立憲政友会の実質的なボスであった原敬が予算をかっさらっていたのです。原は、鉄道・河川・港湾など地方に予算を使っていきました。立憲政友会は自由党の系譜ですから、支持基盤が地方の地主層です。こうして、地方に利権をばら撒くことで勢力基盤を拡大・強化していったのです。中でも鉄道事業に力を入れており、鉄道国有法を公布し、全国の私鉄を買収したりしています。現在のJRの前身である国鉄の始まりです。まぁ、こんなことをやっていたのですが、日露戦争直後で政府にはお金がありません。ますます軍部は無視されるわけですが、衆議院を押さえている原には逆らえないのです。
社会主義運動の激化
明治時代中頃から資本主義、工業が著しく発展していきました。そのため、女性や家業を継げない次男以下の男性の賃金労働者が増大したのですが、今も昔も持てる者と持たざる者との関係は変わらないもので、資本家の権力が強大だったわけです。そのため、何処も彼処も超ブラック企業で低賃金の長時間労働は当たり前でした。そこで労働者たちが立ち上がり、ストライキを起こすようになりました。1897年(明治30年)には片山潜らが労働組合期成同盟を結成すると、全国に労働組合がつくられ、労働運動が活発になります。そこで、以前少し触れましたが、政府は1900年(明治33年)に治安警察法を公布し、労働運動の取り締まりを強化したのです。
労働運動が活発になると、今度は社会主義思想が広がっていきました。労働運動が政府や資本家に「賃上げや労働環境を改善しろ!」と訴えるのに対して、社会主義思想は「そもそも資本主義やからあかんのや!」というスケールの大きなものです。1901年(明治34年)、幸徳秋水や片山潜らが中心となって、日本初の社会主義政党である社会民主党を結成します。しかし、これも治安警察法によって解散させられてしまいました。
また、公害が社会問題となったのもこの時期で、足尾銅山鉱毒事件が有名です。衆議院議員の田中正造が解決に向けて尽力したのですが、議会で追及しても埒が開かないということで、議員辞職して明治天皇に直訴したという話は小学校の歴史でも教わります。
このように数々の労働運動や社会運動を厳しく取り締まってきた政府でしたが、西園寺は「面倒を起こさなければ、思想ぐらい自由を認めてやれよ」という寛容な態度を取ったため、1906年(明治39年)に片山潜や堺利彦らが日本社会党を結成し、社会主義の実現を掲げるようになりました。社会党は待ってましたとばかりに大暴れするわ、社会党内では「暴力に訴えてでも社会主義を実現するべきだ」という直接行動派と「正式な手続きに則って行うべきだ」という議会政策派に分かれて対立するわ、穏やかではありませんでした。結局、日本社会党は解散させられることになりました。さらに翌年、仲間の出獄を歓迎した社会主義者たちが革命歌を歌いながら赤旗を振るい行進していたところを警官に注意されたことから揉み合いとなり、多数の検挙者をだすという赤旗事件が起こりました。一方、政府では「このようなことが起こったのは西園寺が社会主義者に甘いからだ!」と西園寺バッシングが起こり、西園寺は退陣することになってしまいます。
やっぱり印象が悪い桂内閣
西園寺内閣が倒れると再び桂が組閣します。桂のバックには陸軍がいるので、なんとか陸軍に予算を付けてあげなければならないのですが、戦後不況でお金がありません。とりあえず、税収が安定しないと何ともならないということで、戊辰詔書を発して、家族主義などの道徳を説くとともに、緊縮財政を進めていくことにします。さらに内務省を中心に困窮した地方を蘇らせるために地方改良運動も進めていきます。外交面では条約改正や韓国併合を行っているのですが、前回やったのでここでは省きます。
まずまず順調にいっていた第2次桂内閣だったのですが、西園寺内閣の反省から社会主義者への取り締まりを一段と強化していく中で、1910年(明治43年)に大逆事件が起こってしまいます。明治天皇の暗殺を計画していたということで、多くの社会主義者が逮捕、12名が処刑されたのです。幸徳秋水や管野スガらが処刑されたのですが、幸徳秋水は天皇を暗殺しようとなどと考えていなかったらしく、政府は「この際だから社会主義者や無政府主義者を一掃してやろう」と、処罰されたにはかなりの冤罪者を含んでいたようです。ちなみに大逆事件というのは、大逆罪に該当する事件全般を指すものなのですが、この事件が最も有名ということで、大逆事件といえば、この事件を指すようになりました。また、他の事件と区別するために、この事件を幸徳事件と呼ぶこともあります。
政府は、大逆事件をきっかけに警視庁内に特別高等課(特高)を設置して、さらなる取り締まりの強化を行いました。また、国民の大多数に社会主義者=ヤバい奴というイメージが染み付いてしまい、社会主義者にとって冬の時代が訪れることになります。
また、同時に工場法を制定し、労働運動の沈静化を図りました。税収を確保したい政府としては、労使間の対立は好ましくないという理由もあり、以前から計画されていたのですが、資本家からの反対でなかなか実現できずにいたのですが、ここに来てやっと成立したのです。工場法は、日本初の労働者保護法で少年・女性の就業時間を12時間までとし、深夜業が禁止になったのですが、15人以上を有する大規模な工場に限定され、十分なものではありませんでした。
そんな第2次桂内閣でしたが、大逆事件に対する批判が大きくなり、退陣に追い込まれてしまいます。こうして、また西園寺に政権を譲渡し、第2次西園寺内閣が組閣されることになります。
伊藤博文の後継者で最後の元老となる西園寺公望。
公家出身で若い頃にフランスのソルボンヌ大学に留学していました。
その際、パリ・コミューンを目の当たりにし、「革命は絶対にあかん!」と心に刻んだようです。
また、カフェでお茶をしているときに、現地の女性が誤って店のガラスを割ってしまい、店主に責められているのを見て、「金さえ払えば水に流してくれるのか?」と尋ねると、提示された数十倍の額を支払い、店のすべてのガラスを割って帰っていったというファンキーなエピソードも残っています。
帰国し首相になると、桂太郎と「情意投合」の協調路線で政権を運営していくのですが・・・
次回、桂と西園寺の情意投合に亀裂が生じ、遂に桂園時代は終焉を迎えます。そして、とうとうあの国が滅びます。