第46回もう一度まなぶ日本近代史~大正政変、桂園時代の終焉~

文:なかむら ひろし

 大逆事件への批判から第2次桂太郎内閣が倒れると、第2次西園寺公望内閣が成立します。そんな中、清国で大きな事件が起こり、それが日本に大きな影響を与えることになります。

逆神孫文と辛亥革命

 北清事変の頃から清国では、満洲民族を追い出し、漢民族による新国家建設に向けた革命運動が盛んになっていました。そんな革命運動の中心となった人物が孫文で、日露戦争の大勢が決した1905年(明治38年)に東京で中国同盟会を結成し、民族の独立・民権の伸張・民生の安定という三民主義を唱え、革命運動を進めます。孫文といえば、後に建国される「中華民国の祖」として崇められていますが、実は逆神です。この人が関わると、革命運動はことごとく失敗に終わります。ほとんどをハワイや日本で過ごしていたので、大陸の内情はあまりわからなかったのかもしれません。1911年(明治44年)に軍隊の暴動が起きると、それが各地に飛び火していき、翌年には南京で中華民国の建国が宣言されるのですが、孫文はここまでは関わっていません。この後、大陸に戻って中華民国の臨時大総統(大統領みたいな感じです)になるのです。こうして、幼少の宣統帝(溥儀)は退位することとなり、清国は滅びます。これが辛亥革命です。
 しかし、これで上手くいかないのが中国です。さすが逆神孫文とでも言っておきましょう。民主国家ではない中国では、強大な軍事力を掌握している人が強いので、袁世凱に大総統の座を簡単に奪われてしまいます。中国同盟会の後身である国民党は、民主化を進めようと頑張るのですが、袁世凱は「バラバラの中国をまとめるには中央が強大な権力を持って押さえなければあかんのや!」と、正論も半分にやりたい放題でした。孫文は袁世凱に対して、第二革命を起こしますが、敗れて日本に亡命してしまいます。一方、袁世凱がまとめられたのはせいぜい北京周辺だけで、中国は各地に軍閥が割拠する戦国時代状態になってしまったのです。

西園寺内閣の毒殺

 日露戦争後の日本では、陸海軍ともに軍拡のための予算を求めていたのですが、戦後の財政難と衆議院第一党である立憲政友会の実質的なボス・原敬の選挙区への利益誘導も相まって、軍拡は実行できずにいました。そんな中、大陸で辛亥革命が起こってしまったので、陸軍は「朝鮮を守るためにせめて2個師団の増設をお願いします」と第2次西園寺内閣に強く要求するようになります。
 しかし、この要求はまったく受け入れられませんでした。そこで、陸軍大臣上原勇作はとんでもないことを仕出かします。1912年(大正元年)、上原は帷幄上奏権を使って陸軍大臣を辞任してしまいました。帷幄上奏権とは、軍部は軍事に関して天皇陛下に直接上奏することができるというものです。さらに陸軍は後任の陸軍大臣を出しませんでした。これが大きな問題です。覚えているでしょうか?山県有朋が成立させた軍部大臣現役武官制を。陸海軍大臣は、現役の軍人でなければ就任することができません。つまり、西園寺内閣は陸軍大臣がいなくなり、総辞職に追い込まれることになったのです。

四面楚歌の桂太郎

 第2次西園寺内閣が倒れると、三度桂太郎が組閣することになりました。しかし、桂のバックには陸軍がいるので、前の事件の黒幕的存在と認識されていたり、それまで内大臣だった桂が首相に就任することは「宮中府中の別」を乱すものだとして、組閣の段階から批判が集中していました。さらに、逆風の中で組閣した桂は大正天皇の詔勅を持って反対派を押さえ込もうとしたものですから、批判は益々強まっていったのです。
 そうした中、立憲政友会の尾崎行雄や立憲国民党(立憲改進党の流れ)の犬養毅らが中心となって、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに桂内閣を倒すべく、憲政擁護運動が展開されます。それに対して、桂は「国防を無視した政友会に任せたら国が滅ぶ」として、自ら政党を結成して政友会を潰しにかかります。立憲国民党を切り崩したり、桂派の官僚を引き入れ、立憲同志会を結成しました。後藤新平・加藤高明・若槻礼次郎などなかなか豪華なメンバーを揃えたものの、衆議院の過半数を取ることはできませんでした。また、政党嫌いの山県有朋とも敵対することとなり、最早これ以上の政権運営は不可能と見た桂は、僅か60日程度で退陣することになってしまいました。これが大正政変です。

怪しいタイミングのジーメンス事件

 桂の後を受けて組閣したのが山本権兵衛でした。山本は薩摩出身で日露戦争時に海軍大臣を務めるなど、バックには海軍が付いていました。山本内閣は立憲政友会と組んで、軍部大臣現役武官制を改め、予備役でも軍部大臣に就任できるようにしました。これで前の上原のような真似ができなくなっただけでなく、政府の息がかかった人間を大臣として送り込めるようになるわけですから、陸軍もあんまりなことができなくなります。また、文官任用令も改正し、政党員が官僚になりやすくしました。つまり、山県と真逆のことをしたわけです。さらに海軍がバックに付いているわけですから、海軍に予算を持っていかなければなりませんので、海軍拡張を計画するのです。
 しかし、陸軍が黙って見過ごすわけではありませんでした。また、国民も海軍拡張のための増税に反対し、山本内閣は激しく批判されます。そんな中で起こったのがジーメンス事件です。海軍がドイツのジーメンス社に軍艦や兵器の発注を行った際に賄賂を貰っていたという汚職事件です。山本自身は潔白だったのですが、海軍の不祥事ということで引責辞任することになったのです。何とも怪しいタイミングです。

久々にあの人気者が登板

 山本内閣が倒れ、次に首相となったのは何と大隈重信でした。憲政党が空中分解してから政界から足を洗っていたのですが、未だに国民からの人気は根強く、「この人なら軍拡を進めらる」と元老から期待をかけられていました。大隈は憲政同志会(桂から加藤高明が引き継ぎました)と組み、総選挙でまさかの過半数の議席を獲得します。そして、懸案事項だった陸軍の2個師団増設と海軍の拡張を実現させてしまったのです。桂や山本ではダメと言われていたのに、大隈になった途端にこれです。いつの時代も変わらないようです。

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子供の頃、薩英戦争に従軍したという山本権兵衛。
そのため、海軍学校に入ると「実際の戦場では・・・」が口癖の嫌な生徒でした。
海軍で順調に出世し、海軍大臣などを経て、内閣総理大臣にまでなったのですが、「ごんべえ」という名前では格好が悪いということで、「ごんのひょうえ」と呼ばれるようになったとか。
第1次内閣は原敬にいいように使われましたが、後の第2次内閣では関東大震災の混乱を収める大活躍をします。

 日露戦争後、平和を貪っていた日本でしたが、欧州に動きが・・・いよいよバルカン半島が火を噴きます。

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