第47回もう一度まなぶ日本近代史~そして、世界大戦へ・・・~
日本国内では、2個師団増設問題から桂と西園寺の情意投合が崩壊、続く山本内閣もジーメンス事件により倒れると、元老は引退していた大隈重信を引っ張り出してくると、大隈人気により与党は選挙で圧勝し、2個師団増設も議会を通過するという、出鱈目なことをやっていたという話は前回やった通りです。日本がそんな状況でも世界は待ってはくれません。欧州は、世界大戦へと歩み始めていたのです。
今回は、第一次世界大戦が起こった背景について書いていこうと思います。そのためには、少し時代を遡る必要があるので、以前取り上げた内容も重複して出てきますが、復習と思ってご覧ください。少々ややこしい話になりますが、ついてきて頂ければ幸いです。
ドイツとフランスの因縁
まずは、ドイツという国をおさらいしておきましょう。ドイツが統一されたのは、日本が明治維新を迎える頃だったという話はしました。ドイツは、それまで各地を王様が治めている戦国時代のような形でした。しかし、フランスとオーストリアという大国に挟まれており、国内を統一して近代化を進めないといけいないという危機感が生まれてくるのです。そこでドイツを統一しようという話になるのですが、ここでひと悶着あります。バイエルンなど南ドイツの国々は、オーストリアの名門、ハプスブルク家から皇帝を迎えようと主張したのですが、北ドイツのプロイセンは「オーストリアみたいな多民族国家で民族紛争が絶えない国に取り込まれたら面倒なことになるだけだ!(だから俺にやらせろ!)」と言って、まとまりません。しかし、プロイセンの鉄血宰相ビスマルクが頑張ります。「ドイツ統一は、鉄(軍事力)と血(国民の血税)によって解決されるのだ!」と言って、軍拡を押し進めた結果、ビックリするぐらい強くなります。そして、まず最初にオーストリアと組んでデンマークを倒し、領土を奪い返します。次にさっきまで組んでいたオーストリアを倒し、追い出すことで北ドイツの統一に成功します。さらに、プロイセンの快進撃に危機感を覚えたフランスが南ドイツとの統一を妨害したことから、プロイセンはフランスと戦うことになります。ここでもフランスの皇帝ナポレオン3世が捕虜になるなど、プロイセンの大勝利で、遂にドイツが統一されたのです。
これらの戦いの中で、敗れたオーストリアではハンガリーが独立を求めたため、ハンガリーにある程度の自治を認める形でオーストリア・ハンガリー帝国に変わるなど、オーストリアはゴチャゴチャし始めました。もっと酷いのがフランスで、民衆が「お前らがバカだからプロイセンごときに負けるんだ!」と大暴れ、多数の死傷者を出すパリ・コミューン事件が起こります。これでフランスは、ドイツに深い怨みを持つことになったのです。
ビスマルクの曲芸外交
フランスから怨みを買ったドイツは、フランスを孤立化させようと複雑な外交を行います。まず、フランスと植民地獲得競争で対立していたイギリスに「我々は植民地獲得競争に参加しませんよ」と、表向きは友好を装います。次に南下政策でイギリスと対立していたロシアにも接近し、あくまで友好的であることを示します。続いて普墺戦争で追い出しておきながら「同じゲルマン人同士、仲良くしましょう」と言ってオーストリアにも接近し、ドイツ・ロシア・オーストリアの三帝同盟を結びます。さらにフランスと国境紛争を起こしていたイタリアを巻き込んで、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟を結びます。
これでフランス包囲網の完成のはずだったのですが、ちょっとした問題が起こります。ロシアが南下政策を進める中で、オスマン帝国と戦い、勝利したことでバルカン半島に進出します。これにイギリスとオーストリアが猛反発、第三国であるドイツが仲介に入るのですが、「イギリス・オーストリア・オスマン帝国をまとめて相手にするのは厳しいでしょ」と言って、ロシアは渋々すべてを返上する羽目になり、南下政策は失敗に終わります。実はドイツもバルカン進出を目論んでおり、ロシアから体よくバルカンを没収する作戦だったのです。しかし、これでロシアとオーストリアの関係が悪化し、三帝同盟が崩壊してしまいます。ただ、ドイツにとってロシアと友好関係を続けることは安全保障上、非常に重要です。地理的にフランスとロシアに挟まれているからです。そこでドイツは、ロシアと秘密裏に再保障条約を結びます。これは両国が攻撃を受けた際、共に中立を守るというものでした。もしドイツがフランスから攻撃を受けても、ロシアは中立を守るので、挟み撃ちに遭わないということです。これでやっとフランスの孤立化に成功しました。
はた迷惑な新皇帝
ビスマルクの巧みな外交によって、欧州は安定していたのですが、初代皇帝ヴィルヘルム1世が亡くなると、状況は一変してしまいます。新たに即位したヴィルヘルム2世が暴走するのです。先代からは重宝されていたビスマルクでしたが、ヴィルヘルム2世に「こいつにいつまでもデカイ顔をされちゃたまらない!」と追い出されてしまいます。親政を始めたヴィルヘルム2世は、まず「どうせロシアとはバルカン半島を巡って争うことになるんだからさっさと切ってしまえ」と、ロシアとの再保障条約の更新を拒否します。ドイツに切られたロシアは、なんとフランスと露仏同盟を結んでしまいました。ビスマルクが最も恐れていたことが現実になってしまったのです。このピンチを打開するために、ロシアの目をアジアに向けさせたことで日露戦争が起こったことは以前書きました。しかし、日露戦争で日本がロシアに勝利すると、ロシアの目は再び欧州に向けられます。
そんな状況の中、ヴィルヘルム2世は火に油を注ぎます。ヴィルヘルム2世は、世界進出を目指すため、軍艦をどんどん建造していったのですが、これが海洋国家イギリスを怒らせ、建艦競争が始まります。さらにドイツがバグダッド鉄道の敷設権を獲得し、ベルリン・ビザンチウム(現イスタンブール)・バグダッドを結び、世界進出を図る3B政策を打ち出したことに対抗して、イギリスはカイロ・ケープタウン・カルカッタを結ぶ3C政策を打ち出し、ドイツとイギリスの対立は決定的なものになってしまいました。イギリスはこうしたドイツとの対立の中で、それまで仲が悪かったフランスと仲直りし、日露戦争後にはロシアとも協商を結び、三国同盟に対抗する三国協商が完成したのです。こうして、欧州は再びきな臭くなっていきました。(ちなみにイタリアはフランスと秘密条約を結んで、すでに裏切る気満々でした)
欧州の火薬庫とは?
先ほど、ロシアとオスマン帝国が戦い、ドイツが仲介に入ったという話をしましたが、この頃のオスマン帝国はかなり衰退しており、バルカン半島の小国が次々と独立していきました。ただ、この小国どもがなかなか厄介で、弱いくせに異常なまでに他国に対してケンカ腰なのです。政情が不安定で、少しでも譲歩するようなことを口にすると、その矛先が国のトップに向けられるものですから、強硬論しか言えません。そうした状況の中、1908年にオスマン帝国で「青年トルコ革命」が起こります。これは、「青年トルコ」という団体が専制政治の打破・憲法の回復など近代化を求めて起こした革命です。この混乱に乗じて、オスマン帝国自治領だったブルガリアが完全に独立、オーストリアはオスマン帝国領だったボスニアとヘルツェゴビナを併合してしまいます。さらに1911年、イタリアが北アフリカの植民地を巡って、オスマン帝国に戦争を仕掛けた結果、イタリアが勝利を収め、オスマン帝国は植民地を奪われてしまいました。
オスマン帝国が没落していく中、1912年にロシアはバルカン半島の小国ギリシャ・セルビア・モンテネグロ・ブルガリアの4カ国を集めて、バルカン同盟を結成させます。バルカン半島をオーストリアに奪われないように、小国が結束してオーストリアに対抗するように仕向けたのです。しかし、バルカン同盟は「あのイタリアにも負けたオスマン帝国なんてチョロいんじゃね?」と、オスマン帝国に戦争を仕掛けます。これが第一次バルカン戦争です。第一次ということは、第二次もあります。オスマン帝国に勝利したバルカン同盟でしたが、今度は獲得した領土の分配を巡って内紛を起こします。ブルガリアは、ギリシャ・セルビア・モンテネグロに何故かオスマン帝国・ルーマニアも加わった5カ国に袋叩きに遭います。これが第二次バルカン戦争です。フルボッコにされたブルガリアは、オーストリアに「あいつらメチャクチャです!なんとかしてください!」と泣きついたのです。オーストリアとしては、迷惑でしかありません。
こうして、バルカン半島は大国の駆け引きの場から小国の領土的野心が暴走し、逆に大国を引っ掻き回す舞台「欧州の火薬庫」と化したのです。ここにちょっとした火花が発生すると・・・
やっちゃったドイツ皇帝ヴィルヘルム2世。
ビスマルクとは社会主義者の取り締まりに関する法律で揉めたとか。
「そんな暇あったら世界を目指そうぜ!」っていう感じです。
そして、それが結果的に世界の不幸の元凶になったというのは言いすぎですが、いろいろ迷惑を振りまいたことは事実。
次回、きっちり罰を受けることになります。
次回は、いよいよ第一次世界大戦をお送りします。遠く離れた日本も参戦することになります。日英同盟がありますから。