第51回もう一度まなぶ日本近代史~大正デモクラシーと最強!原敬内閣~

文:なかむら ひろし

 明治政府は、薩長を中心とした人たちの功績によって誕生した政権ですから、彼らに特別な地位が与えられることにも、それほど大きな抵抗があるわけではありませんでした。しかし、国民も日露戦争で大きな犠牲を払いながらも協力したことで、国民たちの間でも政治参加を求める機運が高まっていきました。これが大正デモクラシーの発端です。

ダブル東大教授の活躍

 大正デモクラシーの発展に大きく貢献した人物といえば、2人の東大教授が最も有名です。美濃部達吉と吉野作造です。特に後者は小学生で習った覚えがあるので、名前くらいは知っているという人も多いと思います。「つくるにつくるって、意味がダブってるやん」と思ったものです。どうでもいいですね。すみません。まずは、この2人の主張を簡単に説明していきます。
 美濃部が唱えたのが「天皇機関説」です。主権は法人としての国家にあり、天皇はその最高機関として行使する存在だという主張なのですが、ちょっと難しいですね。法人というのは、人間ではないものに法律上、人間と同じように権利や義務が与えられた存在です。会社や学校なんかが法人に当たります。例えば、所得税は個人が稼いだお金に課せられる税金ですが、会社全体が稼いだお金にも法人税という税金が課せられています。つまり、国家を形成する国民ひとりひとりにも主権があるということです。「大日本帝国憲法には天皇に主権があると書いてあるじゃないか!」と突っ込まれたわけですが、国家意思の最高決定権は天皇にあるという意味では天皇主権であり、このふたつは矛盾しないと言ってます。ちなみに、この天皇機関説は不敬だとして、後々にいろいろ問題になってしまいました。
 法学者の美濃部に対して、政治学者の吉野は違う視点から持論を展開しました。彼の主張は民本主義と呼ばれます。それは、デモクラシーの訳語として、民本主義を使用したことに由来します。現在では民主主義と訳されますが、天皇主権を否定しているわけではないため、民主主義とすると語弊があるかもしれないとして、民主主義の使用は避けたようです。それでは、民本主義とはどのような内容だったのかというと、政治とは国民ひとりひとりの幸福を追求するためのものであり、政策は国民の意向に基づいて行われるべきだというものです。彼は大衆政治を進めようなんてことは言っておらず、きちんと憲法の理念に基づいた政治が行われているかという監視システムが必要だと言っているのですが、次に出てくる原敬はちょっとずれた方向に進んでいってしまいます。
 2人に共通するのは、憲法改正など一言も言っていないところです。あくまでも運用が重要だということです。現在の憲法議論とは、かなりかけ離れていますね。

(ある意味)すごいぞ!原敬

 寺内内閣が倒れた後、満を持して原敬が首相となりました。原は、平民から首相になったということで、大正デモクラシーの象徴のように扱われますが、実は原の計算です。家老の家に生まれ、最初は全然平民ではありません。ただ、盛岡藩出身ということで奥羽越列藩同盟に参加した(明治政府と敵対していた)ことから平民にされました。その後、立憲政友会で要職を務めるなど、その活躍から爵位が与えられる予定だったのですが、これを断っています。その理由は、平民でいる方が民衆から支持が集まると考えたからです。策士なんですよ。立憲政友会の裏番長として、長く隠れていたのも計算です。「原しかいない!」というタイミングまで隠れ、その間はひたすら利権をばら撒いて支持基盤を強固なものにしていったのです。そんな最強の内閣は、陸相・海相・外相以外はすべて政友会のメンバーで、日本初の本格的政党内閣と呼ばれます。第1次大隈内閣との違いは、原自身が衆議院議員だということです。
 首相となった原は、指導者としての才能が凄まじく、党内の統制を図り、積極政策を推し進めていきます。原内閣の時、大学令が出されており、現在でも残る旧帝国大学以外の多くは、この時に大学として認定されています。それまでは、早稲田も慶応も専門学校という括りでした。
 また、選挙法改正も行っていて、選挙資格を直接国税10円以上から3円以上に引き下げたり、大選挙区制(1つの選挙区から2人以上選出)から小選挙区制(1つの選挙区から1人選出)に改めています。「原敬っていいことしてんじゃん」と思うと思いますが、これもあくまで原敬の計算です。これぐらいの層は、政友会にとって、いい票田になるし、小選挙区制は強い政党に有利なのです。また、大学令も大卒者がいい票田になるので出したと言われています。ちなみに普通選挙導入には反対しています。理由は「ど貧民なんか票田になんねぇんだよ!」とのことです。

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ばら撒き政策で国民の心を掴んだ最強の首相・原敬。
自分の選挙区に鉄道を敷きまくる「我田引鉄」という、ある意味では鉄道オタクの走り的な存在でもあります。
この人の頃から金権政治が蔓延し始めたと言っても過言ではありません。
あんまりばら撒きばっかりやるものですから、当然お金がなくなり、軍縮を行っていくことになるのですが、それは次回のお話です。
そんな感じでボロクソな感じで書いていますが、その政治手腕は天才的で、この人がいる間は政治がかなり安定していました。
この人がいなくなってから、かなり荒れますよぉ!

 次回は、ワシントン会議をお送りします。欧州大戦で大英帝国が消耗してしまったものですからアメリカさんが威張りだします。

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