第52回もう一度まなぶ日本近代史~日英同盟破棄、やらかしちゃったワシントン会議~

文:なかむら ひろし

 得意のばら撒きで議会を席巻する最強の原敬内閣が誕生したわけですが、これも長くは続きませんでした。しかし、こんな内閣をどうやって倒したのでしょう・・・

日本初の暗殺された首相

 原敬の積極政策は順調に進んでいるように見えましたが、不況の到来と共に雲行きが怪しくなっていきます。これにより予算を削られた陸海軍から恨みを買うことになったり、ばら撒きの弊害で利権を巡った汚職事件が多発、さらに「平民宰相」である原に普通選挙実施を期待していた人も、実は原がそんな気がないことを知って落胆するなど、原の評判は悪くなっていきました。しかし、議会を席巻し、やりたい放題の原内閣を倒すことはできません。そう、原敬にお亡くなりになってもらう以外には・・・
 1921年(大正10年)11月、遂にその日が訪れます。原敬が東京駅で暴漢に暗殺されてしまったのです。日本で初めて平民から首相になった原は、奇しくも日本で初めて暗殺された首相にもなってしまいました。暗殺された原の後を継いだのは大蔵大臣の高橋是清でした。高橋は立憲政友会総裁も引き継ぎ、閣僚をそのまま続投させる形で組閣したのですが、元来まとまりのない政友会、原だからコントロールできただけで、すぐに閣内不一致に陥り、倒れてしまいます。

原の遺言

 1920年(大正9年)、パリ平和会議でウィルソン米国大統領の提案した国際連盟が発足することになりました。日本は英・仏・伊と並んで常任理事国となり、新渡戸稲造が事務局次長になるなど、欧州大戦後の国際的地位は向上していきます。「あれ?言い出しっぺのアメリカは常任理事国じゃないの?」と疑問に思われる方がいるのではないでしょうか。アメリカはモンロー主義を掲げる上院の賛成を得ることができず、結局政権が変わっても加盟することはありませんでした。また、敗戦国のドイツや革命によって誕生したソ連も当初は加盟が認められず、それほど大きな影響力は持ちませんでした。それでも、加盟国の中心は欧州であったことから、第三者として仲裁に入ることができた日本は非常に重要な役割が与えられたことに変わりはありません。というか、日本がいないと機能しません。
 欧州大戦によって英仏が消耗したことで、日本は大国の地位を得たのですが、同時にアメリカも頭角を現しました。世界一の大国を狙える位置にまでのし上がったアメリカにとって、大きな障害となるのが日本とイギリスです。特に日本とは中国権益を巡って予てより対立関係にあったので、ここぞとばかりに嫌がらせを仕掛けてきます。それがアメリカ主導で行われたワシントン会議です。この直前に原敬は暗殺されているのですが、原は全権たちに「アメリカの言うとおりにしときゃあいいんだよ」という訓令を送っていました。嫌な予感しかしませんねぇ。

日英同盟崩壊、本当の勝者は?

 パリ平和会議が欧州における新秩序の構築が目的とするのならば、ワシントン会議は太平洋における新秩序の構築と言えます。会議は、1921年(大正10年)11月から翌1922年2月まで続き、様々な条約が締結されました。
 この会議を提唱したのがハーディング米国大統領です。ハーディングは、世界一の大国を狙うに当たって日英同盟を目の敵としていました。なんせ世界トップ3のうちの2カ国がタッグを組んでいるわけですからね。ワシントン会議で日英同盟を没収してやろうと考えたのです。そこで1921年(大正10年)12月、四カ国条約が結ばれます。日米英仏の4カ国が太平洋に持つ領土や権益をお互いに認め合うことで太平洋の平和を保全しようということです。ここでアメリカはイギリスに日英同盟破棄を持ちかけます。建前としては、「日英同盟が存続すると日英の発言力が強すぎて近隣諸国は不安に感じるのでは?」ということでした。イギリスとしては、かつては植民地だったアメリカに大きい顔をされるのが腹立たしくて仕方なかったのですが、欧州大戦で多額の借金をしていることから強く言い返すことができません。イギリスは日本に同盟の更新をしないことを告げるのです。そして、日本はアメリカの陰謀を知らず、イギリスに裏切られたと勘違いしてしまいます。
 続いて1922年(大正11年)2月には、九カ国条約が結ばれます。上記4カ国にイタリア・ベルギー・オランダ・ポルトガル、そして中国も加えた9カ国が中国が主権国家として自立できるようにしようというものです。さらにアメリカが求める中国大陸における「門戸開放と機会均等」も定められました。これによって、石井・ランシング協定は破棄されました。さらに日中間で山東懸案解決条約が結ばれ、ヴェルサイユ条約で日本がドイツから引き継いでいた山東半島における権益を中国に返還することになりました。
 最後は1922年(大正11年)2月にワシントン海軍軍縮条約が結ばれます。欧州大戦後、世界平和を求める風潮が高まったことや各国の海軍拡張競争が国家財政を締め付けていました。そこで「皆で軍縮しましょう」という話になったわけです。この条約は日米英仏伊の5カ国で結ばれました。内容は、老朽艦の廃棄や今後10年主力艦の建造を禁止する他、主力艦の保有率も定められました。この保有率に関しては交渉が最も難航しましたが、結局英米5・日3・仏伊1.67となりました。帝国海軍は、予てより対英米7割を主張していたのですが、「どうせお金ないんでしょ?」とアメリカに財政難が漏れていたため、上手く丸め込まれてしまいました。しかも、日本の全権は駐米大使の幣原喜重郎はいいとして、海軍大臣の加藤友三郎・・・海軍大臣なのに軍縮をやらなくてはならないなんて厳しい話です。ちなみにここでやっとシベリアから撤兵することも決まりました。しかし、日本の比じゃないほどプライドを傷つけられたのはイギリスです。覇権国家だったイギリスがかつての植民地であるアメリカに並ばれたのですから。
 こうして、このワシントン会議によって日英米の3カ国の関係が悪化してしまいました。これを見て笑いが止まらない国があります。そう、あの国です。九カ国条約で中国を見守ろうという話も加盟国でないソ連には関係ありません。どんどん進出してきます。軍縮に関してもソ連は関係なく軍拡していきます。本来は日英米が束になってでも潰しておかなければならなかったソ連を野放しにしてしまったのです。そういう意味では、ワシントン会議における真の勝者はアメリカではなく、ソ連だったと言えることになります。

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原敬の後を引き継いで首相となったのが「達磨蔵相」こと高橋是清。
由来は風貌が達磨にクリソツ、それだけです。
若い頃、アメリカに留学したのですが、騙されて奴隷契約を結ばされたという異色の経歴を持ちます。(ある意味、平民から首相になった原よりすごい!)
日露戦争時、日銀副総裁としてイギリスからお金を借りることに成功したり、大蔵大臣としては不況乗り切りのプロとして大活躍の彼ですが、首相としては何もできませんでした。
ちなみに奴隷時代に身に付けた英語力を活かし、東大で英語の先生をしていたときの教え子に秋山真之や正岡子規、南方熊楠がいたりします。

 次回は、首都東京を大災害が襲います。その時の政府は?!なんと内閣が存在しませんでした。

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