第53回もう一度まなぶ日本近代史~関東大震災と踊る社会主義者~

文:なかむら ひろし

 前回はワシントン会議をお送りしましたが、この頃の日本は内閣がコロコロ変わっていました。ワシントン会議直前に首相の原敬が暗殺され、原の後を継いだ高橋是清もすぐに内閣不一致に陥り倒閣、政友会はダメだということで、次の首相に指名されたのが加藤友三郎でした。

加藤は加藤でも友三郎

 民主化を進めていくという意味では、政友会に次ぐ第2党である憲政会による政党内閣が望ましいところでしたが、憲政会(立憲同志会の後身、第2次大隈内閣時に与党となった立憲同志会が反政友会を掲げる諸政党と合併して結党)の総裁は加藤高明という実質的に首相の決定権がある元老西園寺公望に嫌われている人物です。西園寺は、ワシントン会議継続を建前に全権のひとりであった海軍大臣加藤友三郎を選んだのです。会議の途中で政権交代が起こり、いきなり方針転換されたら国際的な信用を失うので、全権の加藤友三郎なら問題ないだろということです。ここで非政党内閣が誕生するわけですが、山本権兵衛内閣の時もそうだったように政友会と海軍は繋がりがあるので、政権に協力するようになります。
 首相となった加藤友三郎は海軍大臣も兼任するのですが、任された仕事が本当に辛い。海軍大臣の仕事は、本来海軍に予算を持ってくることです。ところがやらされたのは軍縮なわけです。ということで、次は軍縮について書いていくことにしましょう。

軍人が軍服を着て街を歩けない日本

 加藤友三郎首相兼海相は、ワシントン海軍軍縮条約に基づき、海軍軍縮を断行しました。老朽艦を廃棄し、建造中の戦艦は航空母艦に改造したほか、将校や兵だけでなく職工も大規模なリストラに遭います。さらに海軍が軍縮に踏み切ったことで、当然陸軍の軍縮も行われることになります。陸軍大臣山梨半造によって、兵力削減が行われました。所謂「山梨軍縮」というやつです。その代わり、陸軍は航空部隊や戦車部隊が新設されるなど近代化も進められることになっていきます。
 日露戦争勝利後、軍人の人気はうなぎ上りだったのですが、その後は国家の存亡を懸けた戦争というものは起こらず、国際的にも軍縮の流れということで、どんどん軍人の地位は低下していきました。軍人が軍服姿で街を歩くことができない雰囲気となり、「軍人にうちの娘はやれん!」なんて時代だったようで、戦前は軍人の地位が高かったなんてイメージを持っている方も多いと思いますが、それはもうちょっと先の話なのです。

空白期間に起こった大災害

 大規模な軍縮を断行した加藤友三郎首相でしたが、身内の海軍の予算を削らされ、ライバルの陸軍の予算も削らされ、心労も甚だしかったのでしょう。病に倒れてしまいます。1923年(大正12年)9月1日、元老西園寺は2度目の登板となる山本権兵衛を後継首班として決定し、組閣に当たっていた時に関東大震災が首都を襲ったのです。山本首相は難航していた組閣を「今はそれどころじゃない!」と迅速に行い、復興に尽力します。その中心となったのが内相後藤新平でした。後藤内相は震災を契機として、大幅な首都改造を行うため、帝都復興院を発足し、復興計画を急速に進めていきます。
 震災の混乱の中、社会主義者や朝鮮人が「放火した」とか「井戸に毒を入れた」なんていう噂が広まりました。市民の作った自警団や警察によって、社会主義者や朝鮮人だけでなく、関係ない日本人や中国人も虐殺されるという事件が起こりました。山本内閣は戒厳令を敷いて、これを沈静化させましたが、今でも謎の多い事件で、社会主義者や朝鮮人による暴挙の噂は事実だったのか、流言だったのか、その噂の出所などついては諸説あります。まぁいずれにしても日本人の群集心理というものは、今も昔も恐ろしいものだってことです。

ろくでもない社会主義者

 山本内閣の課題は、震災からの復興だけでなく普通選挙を導入するか否かという問題がありました。復興に努めた後藤内相や犬養毅文相兼逓信相などが普選導入に賛成しましたが、山本内閣の支持母体である所謂薩派がこれに反対したことで議論は平行線となってしまいます。そんな中で起こったのが虎ノ門事件です。
 虎ノ門事件とは、社会主義者の難波大助が摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)を狙撃した暗殺未遂事件です。幸い摂政宮にお怪我はなかったのですが、重大な不祥事として山本内閣に対するバッシングが加熱していきます。その中心となったのが犬養毅です。これを覚えておいてください。山本首相は辞表を提出しますが、摂政宮によって一旦は却下されるものの、結局内閣は総辞職してしまいます。震災からの復興に頑張った山本首相だったのに、本当にいらんことをしてくれるのが社会主義者でございます。

社会主義とは?

最後に社会主義について補足しておくことにしましょう。しばらく下火になっていた社会主義運動でしたが、ロシア革命によって世界初の社会主義国家であるソ連が誕生してから、再び息を吹き返してきました。当初は政治闘争を軽視した大杉栄を中心としたアナーキズム(無政府主義)が主流でしたが、次第にマルクス主義が台頭し、政治闘争を重視するボリシェヴィズムが主流となっていきます。1920年(大正9年)には日本社会主義同盟が成立し、1922年(大正11年)にはソ連のコミンテルン(国際共産主義組織)によって片山潜・堺利彦らが中心となり、コミンテルンの日本支部として日本共産党が結成されました。
 日本政府が危険視する社会主義ってなんぞや?っていう話なのですが、簡単に説明すると「天皇も政府もいらんのや!プロレタリア万歳!金持ちから資産を没収して山分けや!」っていうものです。非常に乱暴な説明ですが、所詮こんなもんぐらいの理解で大丈夫です。こんな危険な社会主義に傾倒していったのは、貧乏人だと思うかもしれませんが、実は違います。貧乏人はそんなことをしている暇なんてありません。「みんな苦労してるのに我々は贅沢な暮らしをして申し訳ない」という感じで意外なことに上流階級が赤く染まってしまったのです。

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汚れ仕事を押し付けられ、過労死してしまった加藤友三郎。
ワシントン会議に出席したときにアメリカ人に付けられたあだ名は「ロウソク」でした。
「あの強い帝国海軍のトップが来ると聞いていたけど、ガリガリの老人やないかい!」っていうことでこう呼ばれました。
ただ、燃え尽きる前の激しく燃える炎の如く、きっちり仕事をしてくれました。

 虎ノ門事件で総辞職した第2次山本権兵衛内閣に代わって首班指名されたのは清浦奎吾。貴族院や官僚機構を支持母体とする超然内閣が誕生するわけですが、3回続けて非政党内閣となれば、政友会も憲政会も黙っちゃいません。次回は、第二次憲政擁護運動をお送りします。

なかむら ひろしのTwitter

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