第54回もう一度まなぶ日本近代史~政党内閣を求めて、護憲三派内閣誕生~

文:なかむら ひろし

 元老西園寺公望は、高橋是清内閣が倒れると、加藤友三郎、山本権兵衛と海軍から続けて首相を出しましたが、第2次山本権兵衛内閣も虎ノ門事件によってすぐに倒れてしまいます。西園寺自身、首相の奏薦は民意を反映させた形がいちばん良いというのは理解していましたが、対華21カ条要求で憲政会の加藤高明を嫌っていたため、非政党内閣で時間稼ぎをしてきました。しかし、これ以上の時間稼ぎは無理だと判断し、選挙管理内閣を作ることになったのです。

護憲三派内閣の誕生

 西園寺公望は、清浦奎吾を首相として奏薦します。首相を引き受けた清浦は、貴族院・官僚機構を後ろ盾にし、政友会や憲政会などの政党からひとりも入閣させない超然内閣を作りました。これまで非政党内閣が続きましたが、政友会と懇意にしていた海軍出身者が首相だったこともあり、政友会からも入閣していたので、そこまで反発はしていませんでした。ところが、今回は訳が違います。政友会総裁高橋是清は、清浦内閣打倒に動き出そうとしたのです。しかし、何度も言いますが、元来まとまりのない政友会です。清浦内閣の支持を巡って内紛が起こってしまいます。床次竹次郎らが「清浦内閣を支持して与党にしてもらおうぜ」と言って、政友会から去り、政友本党を作ってしまったのです。当初、高橋総裁は「権力の亡者め!勝手に出て行け!」と、清浦内閣支持派を軽視していたのですが、なんと半数以上の党員が政友本党に参加してしまったため、大慌てとなります。
 第一党を政友本党に譲ることになってしまった高橋総裁は、巻き返しに出ます。憲政会総裁加藤高明・革新倶楽部総裁犬養毅と話し合い、3党が提携し、打倒清浦内閣を誓うのです。これが第二次憲政擁護運動(第二次護憲運動)です。また、政友会・憲政会・革新倶楽部の3党は「護憲三派」と呼ばれました。この第二次憲政擁護運動により、清浦奎吾は「選挙で勝負じゃい!」と議会を解散し、総選挙を行う道を選択します。
 総選挙の結果、護憲三派が圧勝し、清浦内閣は総辞職、清浦としては、これで選挙管理内閣としての役割を全うしたことになります。そして、誕生したのが護憲三派内閣です。中でも最大議席数を獲得したのは憲政会で、苦節10年の加藤高明が遂に大命降下を受けたのです。

加藤高明内閣のお仕事

 加藤高明内閣は、第二次憲政擁護運動を通じて、これまで普通選挙導入に反対していた政友会も賛成に回ったことで、1925年(大正14年)3月に衆議院議院選挙法改正案を通し、普通選挙が導入されました。満25歳以上の男子すべてに衆議院の選挙権、満30歳以上の男子には被選挙権が与えられ、全人口の約20%に選挙権が行き渡ったのです。これは原内閣の直接国税3円以上を納めた満25歳以上の男子の時と比較すると約4倍にまで拡大したことになります。
 この1925年3月は、普通選挙導入とセットで治安維持法も出されています。選挙権拡大という「飴」を与える代わりに、社会主義者や無政府主義者には「鞭」を与えるという、いつものパターンです。同年1月にソ連と国交が樹立したこともあり、「民主化は進めるが危ない社会主義は許しません」ということで、社会主義者の取り締りを強化したわけです。
 また、同年5月から宇垣一成陸相のもと、所謂「宇垣軍縮」も行われています。4個師団廃止など、山梨軍縮の時と同じように浮いたお金で陸軍の近代化も同時に行っていきました。さらに師団が削減されたことで、失業した将校が生活に困らないように中学校以上の学校で軍事教練を正課として、配属将校を設置しました。

憲政の常道とは?

 この加藤高明内閣から犬養毅内閣までの政党政治は「憲政の常道」が機能していた時代と言われています。「憲政の常道」って何?って話なのですが、ざっくり言うと「大日本帝国憲法の精神に則った政治をしましょう」ということなのですが、教科書的に重要なのは「首相の奏薦」に関してです。「帝国憲法の精神に則って」ということなので「首相の奏薦も民意を反映させなければならない」ということです。
 ここからは具体的に説明していきます。まず、元老は好き嫌いなどの感情を捨て、衆議院で第一党となった政党の党首を自動的に首相として奏薦し、組閣させます。もし、この内閣が失政によって倒れた場合、元老は衆議院第二党の党首を首相として奏薦し、組閣させるのです。しかし、このままでは少数与党になってしまうので、自動的に解散総選挙を行うことになり、ここで国民の支持を得られた時点で正式に政権が移るということになります。面白いのは、この解散総選挙で必ず与党が勝つとは限らないということです。また、第二党に政権が移るのは「失政によるもの」に限られ、病死や暗殺などによって、政権が移ることは許されません。この場合は、後継総裁が首相も引き継ぐことになります。ただ、何をもって失政なのかということに関しては明確ではありませんでした。
 「憲政の常道」は、明文化された法というわけではありません。このような慣習を積み上げて、法律以上の効果を持たせようという狙いだったのです。

護憲三派も所詮は烏合の衆

 そこそこ上手く滑り出した加藤高明内閣でしたが、もともと思想の異なる憲政会と政友会です。いつまでも円満というわけにはいきません。希望していた大蔵大臣になれず、やる気をなくした高橋是清政友会総裁が総裁だけでなく閣僚も辞任し、後継総裁には陸軍出身の田中義一が就任するのですが、加藤首相が田中に閣僚も引き継ぐよう要請するも田中がこれを断り、違う人物を入閣させたことで雲行きが怪しくなっていきます。そして、遂に政友会が加藤内閣に牙をむいたのです。まず、政友会は護憲三派の一角である革新倶楽部を吸収し、政友本党を抜いて衆議院第二党となります。そして、濱口雄幸大蔵相の財政改革案を政友会が反対したことで、閣内不一致に陥れたのです。
 倒閣に成功した政友会は「遂に政権獲ったどー!」と喜んだのですが、元老西園寺公望は「そんな汚い方法での政権交代は許しません」と、再び加藤高明に大命降下しました。総選挙でも憲政会が勝ち、加藤内閣が続くかと思われたのですが、その矢先に加藤首相が病死してしまいます。「憲政の常道」に則り、憲政会の後継総裁である若槻礼次郎が首相となります。しかし、憲政会は衆議院第一党とは言え、過半数を獲得できず、若槻内閣は茨の道を歩むことになってしまいます。

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加藤高明から憲政会を引き継いだ若槻礼次郎。
首相が死んだら出てくる人として有名。
お金持ちの加藤高明と違って、「お金がない」がキーワードです。
首相以外をやらせたら優秀なのですが・・・

 次回、「少数与党はつらいよ」をお送りします。

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