第55回もう一度まなぶ日本近代史~少数与党はつらいよ、金融恐慌と張作霖爆殺事件~
護憲三派内閣が分裂し、総選挙の結果、再び憲政会が勝利したことで、加藤高明内閣が継続することになったのですが、直後に加藤が病死し、若槻礼次郎が憲政会総裁と首相を引き継ぐことになりました。衆議院第一党となった憲政会でしたが、単独で過半数を制することができず、革新倶楽部を吸収した立憲政友会、もしくは立憲政友会から離反した政友本党の協力なしには政権運営が困難な状態でした。
ウソツキ礼次郎
若槻内閣は、最初に開かれた議会でいきなり野党から大バッシングを食らうという幸先の悪いスタートとなってしまいます。「松島遊郭疑獄」という汚職事件、「朴烈事件」という朝鮮人無政府主義者による大逆事件(実際に犯行におよんだわけではないが)などが原因で、予算すら通過させられないという状況でした。そこで若槻は、政友会総裁の田中義一、政友本党総裁の裁床次竹二郎と会談し、「直前に大正天皇が崩御し、昭和天皇が即位されたばかりなので、予算だけは通過させてください」と頭を下げたのです。田中と床次は、予算を通過させた後、速やかに総辞職することを条件に賛成に回ることを約束しました。
しかし、予算を通過させた後も、若槻は一向に総辞職する素振りも見せませんでした。憲政会のナンバー2である濱口雄幸も解散総選挙で民意に問うように勧めたのですが、「お金がないから選挙は無理」と言って、はばかりません。今も昔も首相の権限は強く、首相が「辞めたくない」と言ったら、誰も辞めさせることができないのです。
失言から金融恐慌へ
欧州大戦が終わり、欧州の生産力が回復してくると、一気に輸出額が激減し、戦後不況が訪れました。そんな中で関東大震災が起こり、戦後不況と震災不況のダブルパンチを受け、慢性的なデフレに陥ってしまいます。この時、銀行手持ちの手形が決済不能(所謂震災手形)となり、大きな混乱が生じます。簡単に言うと、銀行から借金していた人(企業)が震災によって返済できなくなってしまったわけです。このままでは次々に銀行が潰れてしまうので、政府が銀行を助けようとするのです。
若槻内閣はなんとか震災手形を処理しようと、その法案を議会にかけたのですが、その中で片岡直温蔵相が「渡辺銀行が破綻した」と発言します。ところが、渡辺銀行は破綻などしておらず、むしろ持ち直してきたところだったのです。そして、片岡蔵相の間違った発言のせいで預金者が渡辺銀行に殺到し、次々と預金を下ろしてしまい、本当に渡辺銀行が破綻してしまいました。
失言によって混乱はますます拡がる一方で、大手銀行の台湾銀行も倒産寸前となってしまいます。台湾銀行は鈴木商店という企業に多額の融資を行っており、その鈴木商店が震災によって返済不能に陥ったことで、台湾銀行は休業、鈴木商店は倒産してしまったのです。若槻内閣は、台湾銀行のような大手銀行が倒産してしまうと、それこそヤバイということで、議会を通さず、枢密院に駆け込んで緊急勅令を発布し、台湾銀行を救済しようとしました。しかし、枢密院に「そんなズルは許しまへん!議会を通して法案を成立させんかい!」と突っぱねられてしまいます。枢密院の対応にぶち切れた若槻は遂に総辞職したのです。
若槻内閣が退陣したことで、憲政の常道により、第二党だった立憲政友会総裁田中義一が首相となりました。田中は、まず高橋是清を大蔵大臣に任命し、金融恐慌の沈静化を図ります。3週間のモラトリアム(支払猶予令)を実施し、日本銀行から非常貸出しを行います。また、銀行に預金者が殺到する取り付け騒ぎも表だけ印刷した札束を銀行に積ませることで、預金者を安心させ、金融恐慌を見事に鎮めました。
日本初の男子普通選挙
なんとか金融恐慌を乗り切った田中内閣でしたが、野党が暗躍し、政界再編が起こります。なんと憲政会と政友本党が合併し、濱口雄幸を総裁とする立憲民政党が誕生、衆議院第一党となってしまったのです。田中首相は、当然解散総選挙に打って出ることになります。
普通選挙法導入後、初の総選挙でしたが、鈴木喜三郎内相による選挙干渉も同時に行われてしまうという、なんとも微妙な初の普通選挙となってしまいました。しかも、選挙干渉を行ったのにも関わらず、政友会は第一党は死守したものの、第二党の民政党との差はなんとたったの2議席でした。こんな僅差だとちょっとしたことでも第二党に転げ落ちてしまう危険性が非常に高いと慌てた政友会は切り崩し工作を行います。ここで切り崩されたのが旧政友本党の床次竹二郎一派でした。この床次っていう人がしょうもなくて、ちょっとでも優勢な方にホイホイ鞍替えする挙句、移った先々でろくでもないことが起こるという貧乏神。しかも、資金調達に困ると外国の軍閥からお金を借りるなんてこともするトンデモだったわけです。
謎の満洲某重大事件とは?
ここで話を中国大陸の方へ移します。辛亥革命により清朝が倒れ、一応の中国のトップは袁世凱ということになっていましたが、この人がやりたい放題で「俺が新しい中華皇帝や!」とか言い出して皇帝に即位したり、ワンマンっぷりを発揮しまくります。そんなことをしている内に内外から非難されまくりで、結局大陸をまとめることができずにお亡くなりになってしまいました。袁世凱の死後、軍閥割拠の動乱状態となってしまったのです。
そこで立ち上がったのが孫文の後を継いだ蒋介石です。1926年(大正15年)に国民革命軍総司令に就任し、中国統一を目指した北伐を開始したのです。中国には欧州列国の居留民がたくさんいましたが、蒋介石も各地の軍閥も居留民の生命や財産を守ってなんてくれません。イギリスは、日本に対して共同で出兵し、居留民保護をしようと言ってくるのですが、若槻内閣の幣原喜重郎外相は「大陸に出兵したら英米に領土的野心を疑われるので勘弁してください」と断ります。さらに蒋介石の北伐が進み、南京で中国国民党政府を樹立した頃には、英米だけでなく、日本人が被害を被っても内政不干渉政策を押し通してしまうのです。
そんな幣原外交は、陸軍や右翼、大陸に権益を持つ金持ちなどから徹底的に非難されます。そこで、田中内閣は「強硬外交」を主張、田中首相自らが外相を兼任して、国民党軍が華北に近づくと、居留民保護のために出兵(山東出兵)しています。その間に日本軍と国民革命軍がぶつかる済南事件が起こったり、東京に関係者を集めて東方会議を開き、あくまで満蒙における日本の権益を守ると表明したりもしています。ただ、「強硬外交」と言っても、あくまで英米に対しては「協調外交」を行なっており、補助艦制限を話し合うジュネーヴ会議に参加したり(英米が揉めておじゃんになりましたが)、パリで「国際紛争を解決するために戦争は用いない」という不戦条約に調印したりしています。
田中首相兼外相は、満洲の軍閥である張作霖と友好関係にあり、日本が軍閥を支援する代わりに日本の満洲における権益を認めてもらっていたわけですが、中国国民党の勢いは凄まじく、狼狽した張作霖を操縦できなくなっていったのです。そして、1928年(昭和3年)6月、張作霖が革命軍との戦いに敗れ、北京から満洲に逃げ帰ろうとした時に事件が起こりました。張作霖が乗っていた列車が爆破されるという「張作霖爆殺事件(満洲某重大事件)」です。
実はこの事件、真相は未だによくわかりませんが、通説では以下のようになっています。事件当初は「便衣隊」と呼ばれる中国国民党のゲリラの仕業とされていましたが、どうやら黒幕は関東軍参謀河本大作であるということが極秘情報として、田中首相の耳に入ったのです。この事件をきっかけに満洲に傀儡政権を誕生させようとしていたということです。田中首相は、軍法会議を開き、真相を究明し、犯人を厳重に処罰することを誓いました。ところが、政友会内部や陸軍から猛反発に遭い、結局軍法会議は開かず、警備責任を科すという軽い処分で済ませてしまったのです。この田中の対応に激怒したのが昭和天皇でした。天皇陛下に「以前言っていたことと違うじゃないか!」と激しく叱責された田中は「陛下の信頼を失った以上、首相を続けることはできない」と内閣総辞職を決意したのです。
爆殺された張作霖の後を継いだ息子の張学良は、日本の反対を無視して、中国国民党に降ってしまいました。自分のところの旗を捨てて、中国国民党の青天白日旗を掲げる、所謂「易幟」というヤツです。こうして、満洲は日本の思惑から外れ、よりきな臭くなっていくのです。
長州・陸軍閥から政友会に降った第1号とも言える田中義一。
それで首相にまで上り詰めたわけですから褒めてあげましょう。
張作霖爆殺事件の処理をミスって天皇陛下に怒られたのがよっぽど堪えたのか、内閣総辞職後まもなく亡くなってしまいました。
首相になっても、一人称が「オラ」だったことを世間からイジられていたことは有名。
次回、政権は立憲民政党に移るわけですが、せっかく高橋是清が収めた恐慌を蒸し返す人物が現れます。