第56回もう一度まなぶ日本近代史~心配だらけのライオン宰相、金解禁とロンドン会議~
張作霖爆殺事件の責任を取るかたちで田中義一内閣は総辞職してしまいました。失政による退陣ということで、「憲政の常道」に則り、第二党の立憲民政党総裁の濱口雄幸が大命降下を受けることになりました。濱口は僅か2日で組閣し、総選挙に挑み、大勝します。万全の態勢で取り組むことになるわけですが・・・
昭和恐慌、嵐のなかで雨戸をあける
第一次大戦時、欧米各国は金の輸出を禁止し、金本位制を停止していました。ところが、戦時の混乱も沈静化していく中で、次々と金本位制に復帰していきました。そして、長引く不況により遅れをとっていた日本は、欧米に金輸出解禁を迫られるようになります。また、当時の日本の製品は、現在のように品質が高かくなかったので、欧州大戦が終わり、欧米の生産力が回復してくると、日本製品が売れなくなりました。貿易は輸入超過となり、金本位制に復帰していなかったため、円安が進んでいた(財政破綻するとただの紙切れになる円よりも、金により価値が担保されているドルなどを持ちたがるのは当然ですよね)こともあり、日本経済を圧迫していたのです。
そんな状況で、井上準之助蔵相は緊縮財政と金解禁を断行します。これは、「国際競争力のある製品を生み出せないような力のない企業はさっさとお亡くなりください」というようなものです。しかも、金解禁は実際よりも円高になる旧平価で行なわれたため、円安でもモノが売れないのに、より大変なことになります。ただ、このお尻に火をつけて産業を活性化させるというマッチョイズム全開の経済政策も最初は支持されていました。そう、最初だけは。
政府が金解禁を実施する直前、1929年(昭和4)10月にどえらいことが起こってしまいます。ニューヨークのウォール街株式市場で株価大暴落が起こり、それが瞬く間に世界へ広がり、世界恐慌となったのです。所謂「暗黒の木曜日」というやつです。日本にとってアメリカは最大の輸出相手国です。そのため、まったくモノが売れなくなり、輸入超過は改善されることなく、逆に悪化していきました。その結果、大量の金が流出し、国内で多くの企業が倒れてしまいました。特に農村の被害は深刻で、都会に出稼ぎで出ていた人は職を失い、デフレによる米価や繭価の暴落により、餓死者が続出したのです。また、学校に弁当も持っていけない欠食児童や娘の身売りが流行し、社会問題にもなりました。
このように濱口内閣は、経済政策でいきなり大失態を犯してしまったのです。それでも、井上蔵相は失敗を認めず、金輸出の再禁止をすることはありませんでした。選挙で大勝した内閣は、誰も倒すことができないのです。
いくさをなくそうロンドン会議
一方、外交では再び幣原喜重郎を外相に起用し、強調外交を進めていきます。そんな中、ソ連という危険な国の存在や敗戦国のドイツが復活の兆しを見せていることもあり、英国のマクドナルド首相は日英米の関係を修復し、日英米による国際秩序の構築をより強固なものにしていくことを目的に、決裂したジュネーヴ会議のやり直しであるロンドン海軍軍縮会議を提唱します。日本は、若槻礼次郎を全権、財部彪海相を次席全権として会議に参加しました。
1930年(昭和5年)に行なわれたこの会議では、補助艦の保有率を取り決めることになったわけですが、ワシントン会議で主力艦の保有率を対英米6割に抑え込まれたこともあり、特に海軍軍令部が補助艦の保有率は対英米7割は譲れないと主張します。彼らは、日露戦争の英雄である東郷平八郎を中心に結束し、「艦隊派」と呼ばれることになります。若槻と財部は、粘りに粘って対英米比6割9分8厘で妥結しました。財政状況を考えると現実的に7割も建造できないことや日本がリードして会議を終わらせることでの国際的地位の向上を鑑みても2厘の差など大した問題ではないと考えたのです。この会議では、主力艦建造禁止を5年延長することや潜水艦の保有量を3カ国とも5万2700トンにすることなども取り決められました。
しかし、条約を批准するには議会と枢密院をクリアしなければなりません。議会では、このほとんどパーフェクトとも言える結果に艦隊派の海軍軍令部長・加藤寛治、次長・末次信正らが帝国憲法第11条・12条を根拠に「統帥権干犯だ!」と難癖を付けてきました。さらに、これに政友会の犬養毅らが乗っかり、議会は紛糾することになったのです。しかし、濱口内閣は議会で絶対的多数を持っています。「帝国憲法には外交大権っていうのもあるんですよ」と統帥権干犯問題を一蹴し、幣原外交を非難し、若槻内閣を潰した枢密院の伊東巳代治も絶対的多数を持つ民政党には逆らえません。そして、ロンドン条約は無事に批准されることになったのです。
強力内閣を倒すには・・・
経済失政とロンドン条約批准で各方面から恨みを買ってしまいましたが、衆議院で絶対多数を持つ濱口内閣を誰も倒すことはできません。そんな強力内閣で思い出すのが原敬内閣・・・そうです。濱口首相も彼と同じ末路を辿ることになってしまうのです。
1930年(昭和5年)11月、右翼により狙撃され、重症を負ってしまいます。何とか一命は取り留めたものの、濱口の容態は悪化し、これ以上首相を続けられる状態ではなくなり、首相と民政党総裁を辞任することになります。そして翌年、この傷が元でお亡くなりになってしまいました。
その風貌と実行力からライオン宰相と呼ばれた濱口雄幸。
そういえば、近年もライオンと呼ばれた首相がいましたが・・・
一度決めたことは何がなんでも貫き通す人だったんですが、間違ったことを貫徹されてもねぇ?
ちなみに名言として残っている「男子の本懐」は彼の口癖です。
次回、凶弾に倒れた濱口に代わって、再び若槻礼次郎が登板することになるわけですが、とうとう満洲の天才参謀が独走してしまいます。